年末になると毎年話題になるのが忠臣蔵です。主君の恨みを果たすために四十七人の義士たちが、意地の悪い旗本の重鎮の首を刎ねるという、 勧善懲悪の実に分かりやすいお話です。

よく言われているように、この忠臣蔵にまつわる一連の事件には多くの謎があるようですが(※1)、今回ワタシがテーマにしたものは、通常言われているものとは全く異なるものなのです。

なんとなれば、四十七人の赤穂浪士の中には、御年77歳という高齢の堀部弥兵衛という方(あの四十七士最強戦士 堀部安兵衛 ※2 の養父であり義父)がいたのですが、このヤヘエさん、77歳という高齢で仇討ちに参加しただけでも凄いのですが、ワタシが感心しているのは、仇討ちの後、つまりは、重いクサリカタビラやらカブトやら刀やらを身につけたまま(※3)、本所松阪町(現在の両国3丁目あたり)から泉岳寺まで、わずか2時間で歩いていったということです!(※4)

下の地図を見ていただくと、現代人にとっては歩いて行くには無理がある距離だということが分かりよねぇ。 そうです、実際にこの距離を歩いてみて、ヤヘエさんの凄さを真に理解する、というのが今回のテーマなのです(^^;

本来であれば、ワタシもクサリカタビラとカブトに身を固め、刀を腰に差して歩くべきなのでしょうが、それはまた別の機会に取って置くとして、今回はデジカメ1台だけを持っての試みとしました。

というわけで、2006年12月31日、午後13時丁度に両国の吉良邸跡(写真左上)を出発し、赤穂浪士が歩いたと思われる、吉良邸−回向院−永代橋−鉄砲州の浅野家上屋敷−汐留橋−金杉橋−泉岳寺 という経路で、泉岳寺(写真右)を目指しました。果たしてワタシは何時間で到着できるのでしょうか? いやいや、それよりも“赤穂浪士の道”を完歩できるかなぁ。。。




道のり約10.7キロ。徒歩の速度が時速4キロだとすると、約2時間40分の所要時間となりますが、、、、





赤穂浪士が吉良上野介の首を刎ねた際、この井戸でその首を洗ったということからこの名がついています。



小林平八郎、清水一学らの墓です。最後まで主君を守るために戦った彼らが、 本当の忠臣かもしれません。


手前にある白い墓石は「削って持ち帰り用」のもので、 商売繁盛のご利益があるとか。


討ち入り後の赤穂浪士たちは、江戸の中心地を避けるために 両国橋を渡らずに永代橋を渡ったようです。(※5)



現在の聖路加病院敷地内に「鉄砲州のお屋敷」と呼ばれた浅野家上屋敷碑が建っています。


浅野内匠頭が切腹した際に、その血がかかったと伝えられている石だそうです。となりにやはり血のかかった「血染めの梅」があります。(※6)



討ち入り後の赤穂浪士たちがこの井戸で吉良上野介の首を洗って、浅野内匠頭の墓前にささげたと言われています。



泉岳寺にある赤穂浪士たちの墓です。正面にあるのが大石内蔵助の墓で、四十七士全員の墓(※7)がここにあります。


四十七士中ただ一人、切腹を許されず、83歳でこの世を去った後、同士と同じ場所に墓標を建てられました。(※8)



※1 忠臣蔵にまつわる多くの謎

■内匠頭は何故、松之大廊下で吉良上野介に切りかかったのか?

いくら恥をかかされたとはいえ、勅使・院使を迎えている最中に、 殿中で切りかかったりするものでしょうか。

その場に居合わせた梶川与惣兵衛(内匠頭を羽交い絞めにして止めた有名人。レスリングでは「ネルソン」と呼ばれるこの技ですが、噂によると「ヨソベイ固め」と呼ぼうという動きがあるらしい。)によれば 「この間の遺恨おぼえたるか」との奇声をあげて内匠頭が廊下の向こうからズカズカとやって来たようです。

饗応役を任じられた大名ともあろう方が、居酒屋で酔ってイキナリ暴れだす、 茶髪の若者のような行動を何故取ったんでしょうか?

■内匠頭は何故、即日に切腹となったのか?

朝廷との儀式をないがしろにされたことに対する、徳川綱吉の怒りのためと言われていますが、浅野家は豊臣時代から続いた名門。そこのお殿様をろくに取り調べもしないで即日切腹というのはどうなんでしょう?

■上野介は赤穂浪士に狙われていると分かっているのに、何故、本所松阪町に屋敷代えとなったのか?

当時、大川の向こう側は閑散としていた場所だったらしく、 赤穂浪士が狙っていると噂されていたことを考えると、幕府は吉良家を見捨てたとしか考えられません。

一説には、力をつけてきた上野介を葬るために仕組んだ陰謀だったなんて話もあるようですし。。。

■赤穂浪士は何故、忠臣蔵と呼ばれているのか?

普通に考えれば、赤穂浪士とは、夜中に集団で高家の屋敷を遅い、主を殺したテロリスト集団です。内匠頭と上野介との一件も、加害者は内匠頭で、上野介は被害者なのですから、「仇討ち」とは筋違いです。

ドラマのハイライトシーンの“堀部安兵衛と清水一学との大立ち回り”だって、安兵衛はクサリカタビラをまとった完全武装、一学は寝込みを襲われた寝巻き姿。これは決して「尋常な勝負」ではありません。

にもかかわらず、これら赤穂浪士の行いがこれほどまでに美化されているのは、美談として語り継いだ講釈師の影響でしょう。赤穂浪士の行いを美化させるために幕府が講釈師に働きかけた、と考えずにはいられないのですが、いかがでしょう。

■結局誰が得したんだ?

当時、江戸はいわゆる大不況で、幕府に対する町民の不満はピークに達していたようです。それがこの忠臣蔵事件のおかげで、町民のフラストレーションは解消されるし、“忠義”という、結局は体制に対する忠誠心を煽るスローガンは浸透するし、(邪魔な存在になりそうだった)吉良上野介は始末できるし。。。

“支配者層の権力を維持するために、計画的に戦争が引き起こされる” というような陰謀歴史論という考え方がありますが、まさに忠臣蔵もそのようなものではなかったのでしょうかねぇ。どうでしょう?

※2 赤穂浪士最強戦士 堀部安兵衛

いわゆる「江戸急進派」(江戸に在住した赤穂浪士の中で、吉良の首を刎ねろと息巻いていた人たちのこと)のリーダー各の人です。

旧姓を中山といい、あの有名な高田の馬場の決闘で、 菅野六郎左衛門の助太刀で、相手方を多数切り倒したことで、 一躍有名になり、“中山安兵衛の十六人切り”とか“十八人切り”とか語り継がれております。これって現代風に言えば、“ブルーザーブロディ5人フォール返し”ってとこでしょうか。(「1979年新春ジャイアントシリーズ・日本TV杯争奪スーパーヘビー級バトルロイヤル」にて、って誰も知らんか。。。)

講談では高田の馬場での決闘の直前、たまたま出会わせた娘から扱帯(しごきおび:そういう種類の帯があるらしいが、どんなものなのかは知りません。。。)を借りてタスキにして、敵をバッタバッタとなぎ倒したとのこと。その娘こそ堀部弥兵衛の娘で、ヤヘエさんはこの時のヤスベエさんの強さと男気に惚れこみ、養子にし、そして最後はその娘とヤスベエは結婚して、、、ということです。

※3 重いクサリカタビラやらカブトやら刀やらを身につけたまま

西洋のクサリカタビラ(チェーンメイル)は重さが15キロぐらいあったようですが、日本のものは6キロぐらいだったとのこと。 カブトはいろいろありますが、おそらく1キロ前後、刀は居合い用の真剣が1キロぐらいですから、実践用はも少し重かったんだと思います。 その他、小手だとかスネアテだとか、とにかく完全防備ですから、およそ約10キロぐらいでしょうか。

そんなのを付けて約11キロメートルの道のりを2時間で歩くんですから(しかも人を殺した後に。。)、当時の人は凄かったんですねぇ。

※4 わずか2時間で完歩

当時は、その場所のお寺で鳴らす鐘の音により時刻を知りましたが、 離れた二つの場所で時刻を完全に“同期”させる手段はありませんでしたから、ある場所で丁度6つ時(午前6時)でも、違う場所ではまだ6つ時にはなっていないなんてことはよくあったと思います。

忠臣蔵では回向院を出発したのが6つ時で、泉岳寺についたのが5つ時(午前8時)だとのことですが、回向院タイムと泉岳寺タイムとが完全に同期されていればこの間は2時間ですが、回向院タイムが“絶対時刻”に対して30分進んでいて、泉岳寺タイムが30分遅れていれば、赤穂浪士は3時間かかってこの道のりを歩んだことになります。

ま、これは今となっては絶対に確かめられませんけどね。

※5 両国橋を渡らずに永代橋を渡った

左の絵では奉行に阻止されて渡れなかったということになっていますが、鉄砲州の浅野家上屋敷を一目見てから泉岳寺に行くというのであれば、隅田川に沿って南下し、永代橋を渡って行くというのは割りに普通だと思われます。

また、人を殺したばっかりの血なまぐさい姿で、しかも首まで持って、日本橋の大繁華街を通るのも気が引けたでしょうし、当時としては穢れの考え方もあったでしょうから、そんな姿で江戸城の近くを通るのを避けたのかもしれません。

恐らく赤穂浪士たちは一目を避けるようなルートを選びながら、泉岳寺を目指したのでしょうね。



※6 血染めの石、血染めの梅

浅野内匠頭は松乃大廊下の刃傷事件の後、現在の新橋4丁目交差点の東側にあった奥州一乃関藩 田村右京大夫の上屋敷に預けられ、即日切腹となっております。

その切腹の際に内匠頭の血がかかった石と梅とが、現在、泉岳寺にあるのです。

しかし、結構デカイ石(というより岩)ですからねぇ。この岩を運んだ(たぶん一人でじゃないだろうけど)怪力男たちが非常に気になりますねぇ。

※7 四十七士全員の墓

実は泉岳寺の「四十七士墓所」にはお墓が48人分あります。 これは“4人いてもチャンバラトリオ”というのと少し似ていますが、ま、お墓の話ですから茶化すのはやめましょう。

この48人目のお墓は仮名手本忠臣蔵の早野勘平のモデルとなった萱野三平重実のものです。

このサンペイさんは、内匠頭の刃傷事件をいち早く赤穂に伝えた人物で、通常の旅人なら17日間、飛脚でも8日はかかるというのに、なんと4日で伝えたというのですから、彼は、アテナイ軍の勝利を走って伝えて息絶えたフェイディピデス(もしくはエウクレス)に匹敵する、いやそれ以上のハイスピード・ポストマンと言えるでしょう。

アテナイ軍勝利の伝令が、現在のマラソン発祥のきっかけとなったことを考えると、「江戸−播磨 サンペイレース」なるものが生まれても良いんじゃないかと思うんですが、いかがでしょう。

実は、萱野三平重実は吉良討伐の義盟に加わるのですが、家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害してしまったのです。そして、泉岳寺には彼の供養碑が建てられています。

※8 寺坂吉右衛門

足軽の身であるため、最初は吉良討伐の同士には入れてもらえなかったようですが、その熱意に大石内蔵助もほだされ、討ち入りに参加することとなったようです。

ドラマなどでは吉良上野介を討った後、泉岳寺に向う途中で脱盟したとして描かれることが多いようですが、これには「足軽が討ち入りに参加したことを公にしたくなかった内蔵助が彼を逃がした」「本懐を遂げたことを浅野家ゆかりの者へ伝える命を内蔵助から受けて伝令に走った」「寺坂は討ち入りにすら参加していない。」などの諸説があり、今も歴史の謎として、様々な意見がネット上でも展開されているようですねぇ。

他の四十六士たちが切腹した後には、赤穂浪士の一人である吉田忠左衛門兼亮の娘婿で姫路藩士の伊藤十郎大夫に奉公し、後に江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめたとのことです。その後、宇都宮藩士 山内主膳家に仕え延享4年(1747年)に83歳の長寿を全うし、ようやく念願かなって、泉岳寺に供養費が建てられたのでした。

ちなみに山内主膳の息子には身の丈 七尺二寸(三寸、五寸という説もあり:サイトを調べてもマチマチでようわかりませんが、218センチから230センチぐらいでしょうか?)、体重184キロの超巨漢力士、明石志賀之助という初代横綱がいたそうです。彼は栃木県では伝説の人らしいですよ。(ちなみに二代目の横綱も栃木県出身の綾川五郎次だそうです。やるなぁ栃木県!)




結局ワタシは、軽く道に迷いながらも(^^;、なんとか上の図のルートを辿り、無事、泉岳寺へと到着することができました。

途中何度かコンビニに立ち寄り、飲み物やオニギリを買って、飲み食いしながら結構頑張って歩いたつもりなのですが、 泉岳寺に到着したのはジャスト4時、77歳の堀部弥兵衛さんより1時間遅れての到着となってしまいましたねぇ。

しかも、ヤヘエさんは御年もさることながらクサリカタビラなどを身に纏った完全防備での行脚ですから、改めてヤヘエさんの健脚に恐れ入った次第でございます。

しかし、東京を歩くのって楽しいなぁ。癖になりそうです。