■江戸時代より前の東京と美少女祭りとの関係とは。■

東京(というか東京のある土地)といえば、 徳川家康豊臣秀吉と連れションしているときに、

「おみゃーはあそこの平野を治めるだぎゃ」

とか言われ、嫌々その土地を治めるようになってから初めて歴史に登場したような 感じがしますが、当然、それ以前にもその場所には土地があったわけです。そして当然、そこには 人が住み、 出会いがあり、愛が生まれそれが憎しみに変わり、

「そんな哀しい思い出も、 時の流れは懐かしい青春の1ページに変えてくれたのさ」

なんてドラマが起きていたはずなのです。

そういった先人達のほろ苦き思い出を自分自身の青春と重ね、思わず 眉間にシワなどつくり、手の中のオンザロックのグラスをカランコロンと転がしながら

「人がいる、そして、サントリーがある。。。」

なんて呟くのもまたオツなもんなのですが、それはこの文章の目的ではありません。 そういう独りよがりも人生にはとっても大切なものなのですが、 今回のテーマは“古戦場を歩く”なのですから。

で、いきなりですが「照姫まつり」というイベントを紹介してみたいと思います。これは 石神井公園の三宝寺池に身を投げた照姫というお姫様に ちなんだ祭事で、これを書いている2005年には4月24日(日)に開催される予定なのですが、 なんとこの照姫祭り、毎年、練馬区民の中から、雅っぽくて可憐な美少女を “今年の照姫”として選んで、その美少女さま(やっぱり、美少女は“さま”でしょう)をお輿に乗せて街を練り歩くという、非常に萌え心をくすぐるお祭りなのです。

しかし、このお姫様、単に萌え心をくすぐるだけの存在ではありません。 その照姫こそ、東京の歴史を変えた古戦場に咲く、可憐なる一輪の花だったと言うんですから、 話というものは聞いてみなけれりゃわかりません。と、 いうことで、まずは歴史的背景から説明しちゃいます。




■東京が二大勢力で真っ二つ!■

時は室町幕府の末期、 既に足利将軍の権力は衰えてしまって、豪族達の間には

「ドサクサにまぎれて、いっちょ隣の領地を奪ってやるか!」

なんてヨコシマな心が沸きあがってきた頃の話です。

その頃、現在の多摩地域から埼玉南部、練馬区、北区、足立区一帯は、平安時代末期から続く平家の名族の末裔、豊島泰経により治められていて、 本拠地の石神井城を現在の石神井公園の南の高台に築いたのをはじめ、 練馬や平塚(現在の北区西ヶ原)にも城を構える名門の家長として東京に君臨していたのでありました。

そんな時代、扇谷上杉氏の家宰を務め、 河越(今の川越)、岩槻を治めた大田道灌が東京へ進出してきて、 1457年に江戸城を築くなどして新参者のクセにぶいぶい言わせてきたもんですから、 古くからこの地に住んでいて豪族達にとっちゃ、そりゃー面白くないわけです。で、そんな豪族達が、

「良いんですかぃ豊島のオヤブン、あんな田舎もんにデカイ顔されてぇ。いっちょ、やっちゃってくださいよー。」

とか言ってたんだと思いますよ、たぶん。

ま、そんな時代背景の中、武蔵守護(南関東一帯を治めていた)上杉顕定の家臣である長尾家内で家督を継いだ忠景に家督争いで敗れた甥の景春が謀反を起こし、豊島泰経もシャラクサイ上杉家-太田道灌ラインに目にモノ見せてやるとばかり、景春に味方して、この乱(長尾景春の乱)に加わることになったようです。

細かい経緯は端折りますが、ともかく、文明九年(1477)、 太田道灌と豊島泰経の両者は現在の西武新宿線の沼袋近辺で「江子田・沼袋の戦い」と呼ばれる激しい戦いを 引き起こすことになったのでありました。

■黄金の鞍を付けた白馬に跨り三宝寺池へ・・■

でも、豊島一族の兵ってのは農閑期だけ兵役をしていた農民だったのに対し、 太田道灌の兵は戦いを専門とする武士団であったんですねぇ。

そんなわけで戦力の差は歴然としていて、泰経の軍は次々と打ち負かされ、 なんとか石神井城まで逃げ延びたものの、絶体絶命のピンチに立たされてしまったのです。

その後、大田道灌の残した書物では泰経は平塚の城(北区西ヶ原)に逃げ、更には横浜の方面に逃亡したと書かれているのであるのですが、 地元練馬・中野の伝説ではチト違うんですよ。なんと、覚悟を決めた泰経はキラビヤカな鎧兜をまとい、 家宝の黄金の鞍を付けた白馬に跨り、

「ようよう、新参者ども。豊島泰経の最後の姿、とくと拝みやがれぃ。」

と言ったかどうかは知りませんが、 そのまま白馬ごと三宝寺池に飛び込み自らの命を絶ったことになっているのです。

うーん、やるなぁ泰経。最後におしゃれをしたってとこが名家のプライドってとこなんでしょうねぇ。

そして最初に書いた照姫(泰経の娘)も、父を追って同じく三宝寺池に身を投げたのです。

この当時、敗者の妻や娘は勝利者のモノにされてしまうことも普通にあったでしょうから、 まさに“純潔を守った”ということなんでしょう。

ちなみに、この純潔という言葉、美少女という言葉と 結びつくと一段と輝きを増すって知ってましたか? “美少女の純潔”、ほらね、すごく萌え萌えな気分にさせて くれるでしょ。最初に書いた 照姫まつり は純潔を守った美少女を称える祭りであり、 これだけでも如何に素晴らしいお祭りであるかが分かってもらえると思います。

■黄金の鞍を引き上げろ!■

この伝説にはオマケがあって、明治時代には三宝寺池に沈んであろう黄金の鞍を引き上げようとした輩までいたってんですよ。

こういった方の存在はワタシに勇気を与えてくれますねぇ、名前はなんていうのだろう、 ご存知の方は是非教えていただきたい。




■江古田・沼田の古戦場跡を探る■

江古田・沼袋近辺は住宅街ではありますが、当時の古戦場を偲ばせる遺跡や記念碑などがまだ残されています。

美少女を思いながらこれらを探してみるのも、割りにアレな楽しみを味わえると思いますので、左の地図を参考に探索してみてください。

また、 近くにはお化けや妖怪を祀った「哲学堂」もありますので、 その道のファンの方は是非、そちらにも足を伸ばしてくださいませ。

門の両脇に普通ならば仁王様が置かれている場所に、天狗と幽霊が置かれている、実に素晴らしい場所なのです。

江古田・沼袋の古戦場を歩くなら、まず最初に 「江古田原沼袋古戦場碑」を見るべきでしょう。

西武新宿線の沼袋から中野通りを北に進み、新青梅街道を左に曲がってすぐにある公園の中にこの碑を見つけることができます。

興味深いのはこの碑が建てられた経緯です。 実は昭和31年は太田道灌が江戸城を建ててから ちょうど500年目だということで、東京都が「太田道灌 江戸築城500年記念」なるイベントを 行ったのですが、そのイベントにあたかも対抗するかのように、同じ日に「江古田原沼袋古戦場碑」を テープカットしたというのですよ。

練馬区、中野区などにはいまだに豊島一族の末裔や豊島家家臣の末裔が住んでいて、いまだに“反・太田道灌”の気風が残っているらしいのです。(タクシーの運転手さんからの入手情報)

豊島一族ゆかりの地元住民にしてみたら、東京都が太田道灌の江戸築城を称えるイベントにハシャギ回っている姿は面白く無かったんでしょう。

豊島一族ゆかりの人たちは、今なお大地主で、アパート経営をしていたりで町内会や区議会にも結構顔が利いたり、一族から区議会議員を多数選出されているような家柄であったりする可能性も高いわけで(ワタシの勝手な推論ですが)、東京都の太田道灌イベントにチョットもの申したいという気持ちで、この「江古田原沼袋古戦場碑」を建てちゃったんでしょうねぇ。

ワタシには、この「江古田原沼袋古戦場碑」に

「ふざけんなぃ。太田道灌なんて、ただの侵略者じゃねぇかよ。 例え東京都が太田道灌を東京の開拓者みたいに扱っても、おれっちは認めねぇからな。」

って気持ちが込められているのだと感じられてなりません。

特にこの戦争での被害者の大きさを考えると、豊島一族と その家臣および、兵士として戦った地元農民達の怨念のようなものが漂っているように思えてきてしまいます。

■たくさんの犠牲者が出て、その怨念もすごかったらしい。■

このあたりにはかって、当時の戦死者を葬った「豊島塚」と呼ばれた塚が点在していたらしいのですが、 特に沼袋の「金塚」からは昭和の区画整理の際にはなんとリアカー3台分もの人骨が出てきたというんですから、いかに当時の戦いがすさまじかったかわかるというものです。

それだけすさまじい戦いであったということは、その戦いに敗れた豊島一族の怨念もまた、そりゃあすさまじいに決まっていて、このあたりは昔から、結構“でる”らしいのですよ。

江戸時代には、この近辺のある橋が豊島一族家臣の渡辺氏の呪いで、渡った者は死んでしまう、というかなり直接的な怨念の表現方法をとった言い伝えがあったり、昭和になってからも区画整理等で住宅地化された古戦場跡地に住んだ人々が悪夢にうなされたりと、かなりインパクトの強い土地だったようですねぇ。

そして、そのような戦死者の怨念を静める目的で建てられたのが、「江古田原沼袋古戦場碑」から新青梅街道を西に10分ばかし行った角を左にちょこっと曲がったところにあるマンションと商業ビルとの間に挟まれた一角にポツンとある「延命地蔵」(右上の写真)やその対面にある公園の中にある「豊島二百柱社」(右の写真)なのです。

にぎやかな商店街近くにあるにもかかわらず、なにやら背筋が寒くなるようなマイナスのオーラを醸し出しているような気がしてならなかったんですが、これは単なる気のせいでしょうかねぇ。  いや、確かにワタシは得体の知れない“なにか”に包まれたような気持ちになりましたよ、いや、ホント。

この辺りは是非こんど、ケサパサ探検隊で調査してみたいと思います。

■そして、三宝寺池を覗き込む。■

「江古田原沼袋古戦場碑」や「延命地蔵」「豊島二百柱社」がある場所から三宝寺池がある石神井公園までは結構距離があり、散歩というにはチトきつ過ぎます。

最近、体力にめっきり自信のないワタシは 素直に西武新宿線の沼袋に再び引き返し、そこから上石神井まで電車で移動し、そしてまたもテクテク歩いて石神井公園を目指しました。

この辺りは、お屋敷や神社仏閣が多く残っており、徳川家康よりも太田道灌よりも古い歴史を感じさせてくれる雰囲気が十分に残っていますよ。大きなお屋敷はかっての豊島一族や家臣の子孫の方のものなのでしょうか? 実に興味深いです。

石神井公園の南側に位置する小高い丘に到着したときには、結構息が上がっていて、 自分の体力の無さを痛感しましたねぇ。

しかしこの丘こそ、豊島一族の居城である石神井城があった場所なのです。そして  眼下には三宝寺池が見えるではありませんか! 

豊島泰経はこの丘のどこかから、 黄金の鞍をつけた白馬に跨り、三宝寺池向かって駆け下りて行ったのでしょう。う〜ん、感慨深いモノがあるなぁ。

そのときの泰経の気持ちはどんなものだったのでしょうか。ワタシのような なむしょりん には一族の長として自らの命を絶とうとする泰経の気持ちなど分かるはずはないんですが、それは“無念”だったんでしょうか? それとも、太田道灌への“怒り”だったんでしょうか? 

  午後の日差しによって三宝寺池の水面はキラキラと輝き、 あたかもそれは、今でも池の底に沈んだままの黄金の鞍が、輝いているかのようでした。

■豊島一族ゆかりのモノがたくさんあります。■

  三宝寺池の城跡の対岸に豊島泰経を祭った「殿塚」(右の写真)や照姫を祭った「姫塚」(右下の写真)があります。

「姫塚」に比べ「殿塚」の方はいかにもとってつけたような感じがしますが、 ま、やっぱりオジサンの塚より、純潔を守った美少女の塚に力が入るのはいたしかたないことでしょう。

なんてったって、今の時期、石神井公園近くのいろんなところで、キモノを着た美少女が微笑む「照姫まつり」のポスターを 見ることができますが、黄金の鞍を付けた白馬に跨る豊島泰経の絵などどこにもありませんからねぇ。 良いと思うんだけどなぁ、死を決意して白馬に跨る泰経の絵なんか。でも、商品価値はやっぱ美少女ですかねぇ。

それぞれの塚に刻まれた消えかかった文字を読んでみると、豊島(塚には豊嶋と記載)太郎泰経は文明9年(1477年)10月6日に落城とともに討死したと書かれてあります。

ここでいう「討死」とは三宝寺池へ黄金の鞍を付けた白馬に跨り飛び込んだことを指すのでしょう。

これに反して、三宝寺池の南側にある立て札には、 石神井城は文明9年の4月28日に落城し、最初に書いたように、 泰経は翌年1月25日に平塚城(北区 西ヶ原)に逃れ、その後、小机城(横浜)にまで逃げたと書かれています。

多分、こちらがホントの歴史なんでしょうが、やっぱり、黄金の鞍の白馬に跨り、三宝寺池に飛び込んだとする伝説のほうが、心が躍るってもんです。

あ、それから、ワタシはすーっと豊島泰経と書いてきましたが、正確には「豊嶋太郎泰經」という標記になるそうで、地位も「従五位上左衛尉」というワタシなどにはどの位エライのかちっとも分かりませんが、なんかスゴそうじゃないですか!

ちなみに、ホンモノの豊島一族の墓所は石神井公園の南に位置する道場寺にありますが、残念なことに、一般の人は墓所の敷地に入ることができません。

また、同じく石神井公園の南にある氷川神社には豊島家の末裔の豊島泰盈(ヤスミツ)氏が元禄12年(1699年)に寄贈した石灯篭があります。

1699年というと随分昔のように思われますが、 石神井城が落城してから222年経った頃、時代はすでに江戸時代です。この石灯篭について書かれた立て札を見たときに、

「なんだ、江戸時代か。」

と、思ってしまいました。今まで東京の歴史と言うと、徳川家康以降しか頭になかったのに、今回の探索によって、江戸時代という年代が、東京の歴史としては なんだか“最近”のような感じに思えるようになりましたねぇ。




実は今回の探索で一番驚いたのは、 この近辺には広〜いお屋敷がたくさん建っていることだったりするわけです。 きっと500年以上前の豊島一族か家臣の末裔なんだろうなぁって、ずーっと“うさぎ小屋”生活者のワタシは勝手に想像していました。

そんな昔の身分が、今現在の貧富の差として残っているなんて、やっぱり歴史は単なる過去の記録じゃなくて、連続した1本の流れなんだなぁ、う〜む、勉強になった。