東京の証券取引の中心地として有名な日本橋兜町ですが、 この町の一角、日本橋川沿いの高速道路の下にヒッソリと 兜神社なる小さな神社があることを知っている人は 意外と少ないんじゃないかと思います。そうなんです、 兜神社があるから 兜町なわけで、決して“株の町”だから“カブチョウ”が訛ってついた町名ではないのです。

じゃあ、兜神社ってなんなんだ? ってことになりますが、 このページのタイトルにもある通り、 “東京の守護神”であり “関東の風雲児”あの平将門その人の兜を祀った神社なのです。

東京における将門伝説(※1)では東京大手町の将門の首塚や将門を祀る神田明神が 有名ですが、この兜神社の将門伝説をすごくカイツマンデ説明しますと、 時は天慶3年(940年)2月14日、俵藤太秀郷が平将門の 首を打ち、その首を持ち帰る道中、この場所で兜を落としたので、 その兜を埋め塚を築いたのが『兜塚』で、後年、これにちなんで建てられたのが この兜神社だということです。

(実は他にも兜神社にまつわる伝説はあるのです。概略を ※2に記載しました。)

将門の首は京都に送られ五条河原に曝されたのですが、その後、東京に舞い戻り(※3)、 先に書いた首塚や神田明神など、 東京のあちこちに将門伝説を残すわけですから、 東京における将門伝説はまさにここ兜神社から 始まるというわけなんです。そう考えると、オフィス街の片隅に建てれた小さな神社ですが、 なんだか首筋が寒くなるような気配を感じてならないんですよねぇ。。。





主なる祭神は倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)。これは稲荷神の別名で商業の守護神だそうです。
合祀の神は右に大国主命(=大黒様)、左に事代主命(コトシロヌシノミコト=恵比寿様)です。



神社パンフによると「神石(京都伏見稲荷の神体山の神石)」と書かれていました。


これが御神紋かどうかはわかりませんが、手水舎の水盤に兜の文字を象った紋が刻まれています。


笠木が丸太で、角ばった貫は柱を貫いていない『靖国鳥居(やすくにとりい)』と いう形状の鳥居です。





特に将門関連の紋などは見当たりませんでした。


屋根の片側が延びて張り出し、その下に入り口があり、 正面の柱間が1間である『一間流造』の様式をとっています。
(流造は、神社本殿の最も普遍的な形式で、全国に広く分布しています。)


奥の溶岩は高さが170センチぐらい、手前の「兜岩」と刻まれた自然石はだいたい5〜60センチぐらいです。兜神社のパンフの表紙にはこの自然石が記載されていますので、 この自然石の方が兜岩なんでしょう。(伝説が正しければこの岩の下に将門の兜が埋まっているハズです。)



※1 東京における将門伝説

事実かどうかは置いておいて、超大まかに東京における将門伝説関連の地を書きますと。。。

■討伐された後、兜が落ちた場所に塚を作った
  → 兜神社(中央区日本橋兜町)

■将門を討伐した秀郷が祟りを恐れて将門の鎧を祀った
  → 鎧神社(新宿区北新宿)

■京都の五条河原で曝されていた将門の首が切り離された胴を求めて東に飛んで落ちた場所
  → 将門首塚(千代田区大手町)

■首を切られた将門の身体が暴れ回り、力尽きて倒れた場所
  → 神田明神(千代田区外神田)
    ※ 神田明神のHPによると、もともと首塚にあった神社がこの地に移転されたとのことです。
    ※将門の身体は茨城県岩井市の延命院に埋められたというのが一般的な説のようです。

■将門の足が祀られている
  → 筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町)

■将門の肖像画、将門の首を入れていたとする首桶があった。(戦火により焼失)
  → 筑土神社(千代田区九段下)

■将門の手を祀る、首が飛び越えたという伝説
  → 鳥越神社(台東区鳥越)
    ※将門は祀られていません。ただし神紋は七曜紋です。
     (将門ゆかりの一族には七曜、八曜、九曜紋や、馬をモチーフにした紋が多いようです。)

■将門を祀る、真教上人ゆかりの寺
  → 日輪寺(台東区西浅草)
    ※首塚にある石塔婆の文字は、日輪寺に現存する真教上人直筆の石版を元にしています。

■将門の幼名に関係する?
  → 稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町)
    ※当社の神主さんから聞いた話では、将門と直接関係あるという言い伝えは無いが、
      代々この神社の一族の方は成田山へのお参りを禁じられているそうです。
    (成田山は将門調伏の本尊であるため、将門にゆかりのある人は成田山へのお参りは
     一般には禁じられています。)

などなど、その他にもいくつもあるようです。

※2 実は他にも兜神社にまつわる伝説はあるのですが。。

兜神社にはこの“将門の兜が祀られている伝説”以外にも、 源義家が後三年の役(永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)まで)から 凱旋してきた際、 東夷鎮定のため、兜を楓川の辺のほとりに埋めた という(または出兵する際に、兜をこの兜岩にかけて勝利を祈願したという)伝説があります。

ちなみに、この後三年の役とは陸奥の国と出羽の国との間で起った 清原真衡、家衡、清衡、三兄弟の骨肉の争いに、 奥州で勢力を伸ばそうとしていた源義家とが絡んだ5年に渡る戦いで、 “右目を射抜かれても戦い続けた鎌倉権五郎景正の魂が宿ったため、厨川(クリヤガワ)には 右目がない魚「片目鰍(メッコカジカ)」 が住むという伝説”(秋田県横手市仙南村の伝説) が残されています。

また、骨肉の争いを最後に制した清衡は後の藤原清衡で、 衣川のほとりに拠点を移し、後の平泉藤原三代の基礎を築きました。

※3 五条河原に曝されたのですが、その後、東京に舞い戻り

五条河原に曝されていた将門の首が胴体をもとめて自ら空を飛び、そして力尽きて落ちたのが 現在、三井物産ビルの隣にある首塚のある場所だったという有名な話がありますが、 どう考えても、そんなの割りにアレすぎますので、 ちょっと調べてみましたら、現実っぽい説が見つかりましたので、 カイツマンで紹介しますと、

■当時の東京一帯は親将門派の江戸氏(秩父平氏の流れを組み、平良文の末裔。)に よって治められており、 現在の大手町は当時、海につながる湿地帯で柴崎村という漁村であり、 将門ゆかりの安房国の漁民が漁業の中継基地とする一方、安房国の漁民が多数定住していたらしい。

■その江戸氏が調停と掛け合い、将門の首を貰い受け、それを(将門ゆかりの安房国の漁民が住んでいた) 柴崎村に塚を作って祀ったらしい。

とのことなのです。
現在の神田明神も築土神社ももともとはこの旧柴崎村にあったようですので、 江戸城はまさに将門ゆかりの地に建てた城と言えるようです。



証券会社が立ち並ぶオフィス街にヒッソリと建っています。

近くにある「鎧橋」です。 源義家が東征の際、暴風雨で荒れ狂った日本橋川を渡ろうとした際、 自らの鎧を川に沈めて龍神に祈り、川を鎮めた、 という伝説があります。

中央区日本橋兜町1−8:
東西線茅場町駅からも日本橋駅からも、半蔵門線水天宮前駅からも 10分ちょっと歩きます。
毎年4月1日に例大祭がとり行なわれるようです。