写真を見ていただくと、なんとなく「焼き団子」かな? と思われる方も 多いと思いますが、焼いている方の手の大きさと比較していただければ、 これは「団子」のサイズではないということがお解かりになっていただけると思います。

大きさだけでなく、これは団子(=モチモチ感、密度が高い)ではなく、 饅頭(=フワフワ感、密度が低い)であり、群馬県の沼田地方から前橋・伊勢崎地方、そして埼玉県の秩父地方ではかなり有名な「焼きまんじゅう(場所によっては味噌まんじゅう)」と呼ばれる食品なのです。

現在、けさらんぱさらん ではこの焼きまんじゅうのルーツについて調査を行っております。皆様からの情報も大歓迎ですので、よろしくです!






そもそも“焼きまんじゅう”とはなんだ?

東京出身のワタシは実はほんの最近まで、焼きまんじゅうを知りませんでした。 2006年11月に ソースカツ丼の上州での発祥の地を求めて前橋に遊びに行ったときに、偶然、商店街のイベントで出店で食べたのが初めての焼饅体験だったのですが、 群馬県や埼玉県の秩父地方などではとても有名な食べ物で、 まさに“ふるさとの味”なのだとか。

また、それぞれの地方によって微妙に味わいも違うようですねぇ。一説には、 「北の方ほどタレが濃くなり、東に行くほど甘くなる」ということですが、 実際のところはいかがでしょう? 是非、地元の方のご意見を知りたいところです。

焼きまんじゅうとは、粉と “どぶろく” を混ぜて発酵させたものを蒸し、串にさして味噌ダレをつけながら焼いたもので、 直径6〜7センチ、厚み3センチほどの“まんじゅう”が 1串に4つ刺さっているのが基本形のようです。1串に4つ刺さっている理由としては 、本来、ダルマ状に2つに繋がった形で蒸したものが元ネタとなっているためだそうですが、現在では製造方法が変ったのか、1串3つバージョンもあるようですねぇ。


フカフカで口溶けの良い食感です

実際に見ると、結構大きく、「これを4つ食べるのはツライかも」と思われますが、 一番最初にも書いたとおり、これはモチモチとした密度の高い団子ではなく、 フカフカの密度の低い饅頭ですので、口に含むとスーッと溶けるような食感で、 意外と簡単に食べられます。女性でも2串ぐらい、普通のおやつ感覚で食べられると 思いますよ。

最近では中にアンコの入ったものも出回っているようですが、 地元の方に言わせると、それは“邪道”だそうです。 しかし、味噌ダレにアンコという組み合わせは、実に珍しく、 さすが “ソースカツ丼を考案した上州人だぁ” と思わずにはいられません。

また、焼きたては柔らかく口溶けも良いのですが、冷えるととても硬くなり、なんつぅか、噛んだ時に「ぐんにょ〜」って感じで噛み切れない状態になります。 しかし地元の“焼饅通”に言わせれば、「ちょっと冷めて歯ごたえが増したときが美味い」とのことです。ワタシも焼いた餅は冷め際が好きですから、その気持ち、よく分かりますねぇ。


元祖を巡る三つ巴の戦い 〜沼田街道のどこで発祥したのか?〜

けさらんぱさらん の調査では、どうやら焼きまんじゅうの分布(沼田、前橋、伊勢崎、から埼玉の秩父)は養蚕業の分布と似ていることが判りました。 この地方は昔から養蚕、絹織物が盛んな場所で、たくさんの絹商人たちが往来を行ったことでしょう。その絹商人たちが絹織物と共に広めたのが焼きまんじゅうではないのか、というのが我々の考えです。

では、上州−武州シルクロードが焼きまんじゅうを広めたとして、その発祥の地はどこだったのでしょうか?

調べてみると、沼田市、前橋市、そして伊勢崎市が、 それぞれ「焼きまんじゅう発祥の地」を名乗っているようです。順を追ってこれら三市を検証してみたいと思います。


前橋代表:原嶋屋総本家 〜「渡世訓」や「渡世かるた」まである!〜

焼きまんじゅうについて調べていて、一番最初に出てくるのが 前橋にある原嶋屋総本家がその元祖だという説です。(これをワタシは「原嶋屋説」と呼んでいます)

1857年(安政4年)に伊勢崎方面の庄屋だった原嶋類蔵さんが、 小麦粉と もち米を原材料に、どぶろくをタネ(発酵剤)として、 まんじゅうをつくったのが、現在の原嶋屋総本家の始まりだったとか。

どぶろくをタネにして発酵させるという手法は とても珍しかったようです。そしてその後、ただの白いまんじゅうではおもしろみがないないと考え、長い竹の串に刺し、味噌を付けて焼いのが焼きまんじゅうの誕生の瞬間でした! その当時の名称は「味噌付きまんじゅう」だったらしく、1尺3寸(およそ40センチ)ほどもある長い竹串に5個さしもので、1本を2文で販売していた ようです。

また原嶋屋総本家には商売の家訓を示した 「万代不易の原嶋屋渡世訓」 があり、 結構、ふむふむと納得しちゃう内容です。さらに 「上州原嶋屋渡世かるた」 なども 発行しており、原嶋屋は文化面でもこの地方に大いなる足跡を残しているようです。

尚、初代 原嶋類蔵さんが焼きまんじゅうを創案したときは、 地元の菓子組合に阻まれて出店することができず、屋台や露店のみで販売していたのだそうです。こういった話は大好きですねぇ。すごいぞ類蔵さん!

原嶋屋総本家(日本観光協会サイト)


沼田代表:東見屋饅頭店 〜「焼きまんじゅう沼田発祥説」の雄〜

次に紹介するのが、沼田市にある東見屋饅頭店です。

東見屋饅頭店は創業1825年(文政8年)で、創業年代だけを見ると、 こちらの方が原嶋屋総本家よりも32年も古いのです!

それだけで「こちらが本家だ」と考えるのはあまりにも早合点すぎますが、 180年以上も続いているお店が残っているということは驚くばかりです。(沼田地方を焼きまんじゅう発祥の地とする説を「東見屋説」と呼びましょう)

沼田地方では焼きまんじゅうはほとんどの場合「味噌まんじゅう」もしくは「味噌付まんじゅう」と呼ばれているようです。また沼田地方では、アンコが入ったものが比較的多く出回っており、中には「味噌まんじゅう=アンコ入り」、「焼きまんじゅう=アンコ無し」という区分をしている場合もあるとか。この辺も、是非、地元の方々からの意見を聞きたいものです。

沼田の焼きまんじゅうは前橋や伊勢崎と比べるとタレがあまり甘くなく、照りが強いのが特徴だとか。これはこの辺りの寒い気候と関係あるのでしょうか?  例えば「掛け蕎麦」の場合、同じ山間部でも、比較的温暖な富士山麓山ではツユは甘いですが、会津では辛口となります。気候と味覚についての比較検討も是非、いつか調べてみたいと思っています。

東見屋饅頭店(JTBサイト)


伊勢崎市には「焼き饅祭」がある! 〜国定忠治と焼きまんじゅう〜

現在までの調査では、江戸時代以前から伊勢崎市にある焼きまんじゅうのお店を見つけてはいないのですが、伊勢崎には焼きまんじゅうを祭事に取り入れた「焼き饅祭」なるものが存在するのです!

これは毎年、1月11日に伊勢崎神社で開催される“初市の日”と同時開催で行われるもので、創立は2003年なので、まだ新しいものではあるのですが、 その意気込みは相当なようです。

この「焼き饅祭」は いせさき焼きまんじゅう愛好会 が主催しており、 サイトによれば直径50センチの饅頭をウヤウヤしく掲げた“ミスひまわり”の皆さんたちが扮した巫女さんと伊勢崎神社神主による大饅頭行列が行われる(大饅頭行列の後、巨大饅頭に吉文字を入れ焼いて食べる!)「大串饅頭」、長さ50メートル(!)の長串で焼きまんじゅうを焼く「長串饅頭」などのイベントが行われ、その思い入れの深さがうかがえちゃうってもんです。

この、いせさき焼きまんじゅう愛好会 の代表をつとめるのが 忠治茶屋 の店主。

忠治茶屋の名前の由来はもちろん国定忠治からきており、 なんと、忠治茶屋本舗の建物は、忠治が最後にかくまわれていた西野目宇右衛門宅が解体された際に、その資材を譲り受けて建てたものだとか。やはり気合が入っていますねぇ。

初代店主のセンスの良さが光ります!
〜新田一族ゆかりの地、新田町の「助平屋」〜

焼きまんじゅうのお店をサイトで調べていてビビッときたのがこの 「助平屋」 です。

サイト記載の屋号の由来を読むと「まんじゅうがふくらむのと、はらんで腹がふくれるのを結びつけ」初代が名づけたというのですから、一般的な“スケベエ”の意味で使っているようですねぇ(^^; 戦争中には「けしからぬ」と当局からクレームがついたのだとか。

また「初代のもうひとつの意とするところは、平らに人に接する、助ける、ということで、心を込めて作り、そして心を込めてお客様をお迎えすることである。 」という由来も書いてあり、コチラの方は当局から文句を言われた場合の「言い訳用」だと思いましたが、いかに。

サイトによれば、

「助平屋のまんじゅうは、今も昔と変わらぬ製法で作られる。まず米を炊いて麹を入れ、人肌の温度で二十四時間ねかして発酵させ、小麦粉を混ぜて練り上げて生地を作る。それを切ってまんじゅうの形に丸め、セイロに並べて自然発酵させ、まんじゅうの大きさになるのを待ってから蒸す。

 焼まんじゅうは、まんじゅう半分、タレ半分といわれ、タレには当店独特の秘伝が隠されている。助平屋の味噌ダレは時間をかけてとろ火で煮込まれている。

タレは、全く醤油は使っていないのに艶やかな黒光り。こってりとした甘さなのだが、くどくなく、口の中でサラッと溶ける。」

だとのこと。是非、食べてみたいですねぇ。。。



シルクロードが運んだ焼きまんじゅう 〜ネーミングの変化から焼きまんじゅうのルーツを探る〜

焼きまんじゅうは、原嶋屋説でも東見屋説でも最初は「味噌まんじゅう」と呼ばれていたようですが、これを「焼きまんじゅう」としたのは、どうも前橋の生糸商人たちだったようなのです。

前橋は当時から商業が栄えた街で、たくさんの生糸商人がいたようなのですが、商人にとっては「味噌」は「ミソが付く=しくじる」に通じ縁起が悪い言葉だとのことで、焼きまんじゅうと呼び名を変えたというのがその理由だそうです。

これが正しいとすれば、養蚕が盛んであった沼田地方で誕生した「味噌まんじゅう」が前橋の生糸商人によって各地に広まった、つまり、焼きまんじゅう発祥の地は沼田地方だ、と考えられるような気がしますが、いかがでしょうか。

また伊勢崎の焼きまんじゅう屋は前橋とを結ぶ旧街道沿いに多く郡部には少ないらしく、このことから、伊勢崎の焼きまんじゅう文化は前橋の生糸商人がもたらしたもの、という説もあるのだとか。

ま、このあたりはまだまだ調査中ですので、結論は出ていません。 是非、情報をお持ちの方はご連絡ください。


焼きまんじゅうのルーツが書かれた幻の本がある?!


また、ワタシはまだ入手できていないのですが、 「焼きまんじゅう屋一代記(木暮正夫〔著〕:偕成社)」という本があり、 それによると沼田と伊勢崎とでは焼きまんじゅうのルーツが違うということが 書かれているらしいのです。(読んでいないので、なんとも言えませんが、そのようなコメントがネット上にありました)

是非、入手してみたいと思うのですが、 ネットで調べると“在庫無し”の状態で、おそらく、全国の焼きまんじゅう調査ファンが買いあさっているのが原因だと思われます。

この“沼田、伊勢崎、独立発祥説”が正しいとすれば、 それぞれ独自に発祥した沼田焼きまんじゅうと、伊勢崎焼きまんじゅうとが間に位置する前橋の生糸商人によって融合され広まったのかもしれません。

このように、まだまだ判らないことだらけの 焼きまんじゅう問題ですが、今後も継続的に調査していきたと思いますので、情報がありましたら、是非、お知らせください。