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“まんじゅうの天婦羅”です。餡子の入った茶まんじゅうの天婦羅なのです!

しかし、よくある観光客目当ての気をてらった料理なんかではありませぬぞ。“まんじゅうの天婦羅”こそ、
福島県の会津若松地方の
庶民の生活に根ざした伝統的な食べ方であり、ある意味、
目に見えぬ大いなる存在に対する畏敬の念が具現化したカタチとも言えるのです。

「目に見えぬ大いなる存在に対する畏敬の念が具現化したカタチとしての“まんじゅうの天婦羅”」
まさに難解な哲学書にでも出てきそうな
表現ではありませんか。

こんな形而上学的思いを眉間のシワに刻み、
ある日ある朝、ワタシは愛車に乗って、東北自動車道を北へ北へ、そして磐越自動車道から更に西へ西へと
突き進んで行ったわけなのです。




“目に見えぬ大いなる存在に対する畏敬の念”と“まんじゅうの天婦羅”の関係性について

昔は甘いもの自体が非常に貴重なものだったのです。
ですから、おまんじゅうなんて、庶民はめったに食べることができなかったとか。
だから、なにかの折におまんじゅうを手に入れたときは、まずは
神棚に捧げていたというのです。

そんなわけで、このおまんじゅう、
人の口に入るのはだいぶ日数が経ってからのことになるので、
食べようと思うころには、
カビが生えていたり、腐りかけていたりする可能性があるわけです。
そのため天婦羅にして食べたというのが“まんじゅうの天婦羅”の始まりだということなのです。

最近の科学万能主義にどっぷりつかった現代人には、
目に見えぬ存在に畏敬の念を持ち、それに貴重なものを捧げるなんていう感覚は
頭では判っても体感的に理解することは難しいのですが、
この感覚こそ、ワタシがこのサイトで提唱しているケサパサライフの真髄ともいえるでしょう。

つまりはこの“まんじゅうの天婦羅”にはケサパサ魂が込められているということです。
まんじゅうも丸くて(この地方の“まんじゅうの天婦羅”は“茶まんじゅう”なので、白くはないのですが)、
なんとなくケサパサっぽいですからねぇ。そう考えると嬉しくなっちゃいます。

話がそれてしまいましたが、目に見えぬ大いなる存在に対する畏敬の念が具現化した食品、
それが“まんじゅうの天婦羅”なのです。

ま、食べ物なので、能書きより味なんですが、
餡の甘さが揚げることによってよりシットリとした甘みになったって感じでしょうか。
コクのある甘さというか、まろやかさが増したというか。
想像していたベタベタな甘さではないので、お茶菓子や食後のデザートだけでなく、
ご飯のオカズにならなくもないってかもしれないかも・・・って感じです。

左上の写真の「峠の茶屋っぽい店」で“まんじゅうの天婦羅”“スルメの天婦羅”“ニシンの天婦羅”が食べられますよ。値段はうる覚えですが(^^;、たしか1個75円とかそんな感じだったと思います。蕎麦も結構な量で400円ぐらいだったかなぁ、東京の値段に慣れ過ぎているいるワタシにとって、これも驚きでしたねぇ。

恵の湧き水と天婦羅茶屋

実は“まんじゅうの天婦羅”のメッカである、福島県河沼郡河東町八田にある、
旧江戸街道と旧二本松街道の分岐点に位置する「峠の茶屋っぽい店が並ぶ一角」には
「強清水(こわしみず)」という「ふくしまの名水30選」にもなっている
湧き水が出ています。

と言うより、ほとんどの人にとってはこの「強清水」がメインで、
「強清水」の湧き出る場所にある食事処で“まんじゅうの天婦羅”が
食べられる、というのが本筋だとは思いますが。。。

この「峠の茶屋っぽい店が並ぶ一角」は実に風情があるんですよ。
左上の写真でなんとなく判ってもらえると嬉しいんですが、
水戸のご隠居さまがお供の二人とその他ご一行を引き連れて、
小休止しているような感があるのです。

またこの「強清水」には伝説があって、これが単なる“種々の鉱物由来の荷電粒子が溶け込んだ、水素原子2つと酸素原子1つとが共有結合した分子の集まり”だと思ったら、
大間違いです。
この水には改心した不良息子と、立派なお父さんとの涙涙の物語があるのですから
ご利益のあること間違い無しです。

会津若松と信州伊那とを繋ぐ“まんじゅうの天婦羅”の謎

この“まんじゅうの天婦羅”ですが、会津若松市以外では
長野県の伊那市でも
名産品して存在します。(左のリンク先で「食べる」>「伝統行事食」と進んでください)

ただし伊那では呼び名が“天麩羅まんじゅう”となります。
会津若松では「まんじゅう」は形容詞的に「天婦羅」にかかっているのに対し、
伊那では「天婦羅」が「まんじゅう」を修飾している点に注目ですねぇ。

会津若松では“まんじゅうの天婦羅”つまり、あくまでもコレは「天婦羅=食事のオカズ」であり、信州伊那では“天婦羅まんじゅう”つまりコレは「まんじゅう=神事に用いる食材」だというわけです。(にへどん説)

つまり、
会津若松では「お供えした後のおまんじゅうを人が食べるために天婦羅にした」と
いうことで、信州伊那では「天婦羅にしたまんじゅうをお供えにしている」と
いうことが判るというもんです。(ホントか?)

上の伊那市観光協会のサイトでは、高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)を
治めていた保科正之が、実は三代将軍徳川家光と異母弟だったことがわかり、
だったらもっと大きな藩を治めさせねばということから、
山形最上二十万石へ移り、その7年の後に、会津若松二十三万石へ転封されたのですが、
この時いっしょに「まんじゅうを天婦羅にする」という文化までもが継承された(文化継承説と名づけましょう)ということ
なのですが、先のワタシの持論からこの文化継承説を考えると、
「まんじゅうを天婦羅にしてからお供えしていた文化」が「単にまんじゅうをお供えする文化」として伝わり、その後、お供えしたものを天婦羅に揚げた、ということになり、
なんかちょっと割りにアレな感じがしますねぇ。

また、この文化継承説だと、山形最上地方にも“まんじゅうの天婦羅っぽいもの”がありそうなんですが、最上町観光協会のサイトを見てみましたが、残念ながらそれっぽいものは
見つかりませんでした。ま、これは、7年ぐらいじゃ、文化を残すまではいかなかったという理由かもしれませんが。。。

ま、結局、よくわかりません(^^; どなたかこの件でご自分の論説をお持ちの方、
いらっしゃいませんでしょうか? いらっしゃったら、是非、メールで教えてくださいませ。


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