ごく普通の、東京のサラリーマン家庭に育ったワタシにとって、 基本的にカツ丼といえば、トンカツを甘辛い醤油ベースの出汁で煮込んで 味付けし、卵でとじたモノをイメージしますが、 地方によってはカツ丼=ウスターソースなどで味付けしたトンカツをご飯の上に乗せたもの、 として認識されているところも多いようです。

ワタシの調べたところでは、福島県、群馬県、長野県、福井県が概ね カツ丼=ソースカツ丼エリアと言えるようですが、 現在、これらソースカツ丼エリア同士で「ソースカツ丼の発祥地論争」が 起きているというじゃないですかっ!

最近、地方都市においては、ちょっと隙を見せるとすぐに「B級 ご当地自慢」が始まってしまう 風潮があるようですねぇ、素晴らしいことだと思いますよ(^^)  というわけで、今回はソースカツ丼発祥地論争について語ってみたいと思います。





ソースカツ丼誕生に関する定説

ソースカツ丼誕生に関する諸説は数々あるようですが、ワタシ的には 大きく次のように分けてみました。つまり、

・ある一箇所で誕生し、そこから全国に広がったとする説(ソースカツ丼ビックバン説)

・様々な地域で独立に多発的に誕生したとする説(ソースカツ丼シンクロニシティ説)

の二つです。

また、上記の「ソースカツ丼ビックバン説」には“ビックバンは早稲田で起った”という説があり、 かなりたくさんのソースカツ丼研究家から 賛同を得ているようです。この「ソースカツ丼ビックバンin早稲田説」において、 以下の人物をソースカツ丼の開発者とする説がネットに掲載されていました。それは

中西敬二郎氏らが、大正10年ごろ考案したとする説

高畠増太郎氏が、大正2年に東京の料理発表会で発表したとする説

の二つです。

この二人のうちどちらが“最初のソースカツ丼マン”なのか、それとも“彼らは単なるフォロアーだった”もしくは “これらは日本全国で独立多発的に起きたソースカツ丼シンクロニシティの中の単なる二つの事象にすぎない”なのかは別として、 どうやら大正時代に早稲田近辺では既にソースカツ丼は販売されていたということは事実のようです。

今回のテーマはソースカツ丼発祥におけるシンクロニシティを考えることです。

各地のソースカツ丼の歴史を調べてみると、やはり“時代的に一番古そうなのは” 早稲田のソースカツ丼のようですが、 複雑系的な思考が趣味であるワタシとしては、 “必ずしも早稲田発祥のソースカツ丼を引き継ぐ形で全国に広まったということではなく、 歴史的には早稲田よりも新しいのだけれども、早稲田ソースカツ丼とは独立に(因果関係が無く)発生した ソースカツ丼もある”とする「ソースカツ丼シンクロニシティ説」を支持するわけです。 よって、ここでは「ソースカツ丼シンクロニシティ説」的な解釈で話を進めていきます。

最初に、全国に分布する「ソースカツ丼発祥の地」を調べてみました。 主なものとしては

・群馬県 前橋地方

・長野県 伊那地方

・長野県 駒ヶ根地方

・福島県 会津若松地方

・福井県 福井市

が挙げられます。

最後の福井県は最初に「ソースカツ丼ビックバンin早稲田説」で出てきた高畠増太郎氏が 早稲田に開いたヨーロッパ亭が関東大震災で被災した後、地元福井に帰り、そこで再びヨーロッパ亭を 開いたことがきっかけで発生したことがわかっています。 このように高畠氏のヨーロッパ亭がきっかけとなったソースカツ丼ムーブメントをを 早稲田ムーブメントと呼ぶことにします。

上記の福井以外の地方のソースカツ丼ムーブメントは早稲田ムーブメントと、 なんらかしらの因果関係を持っているのでしょうか?  それとも早稲田ムーブメントとは因果律だけでは説明できない 共時性(シンクロニシティ)が存在するのでしょうか?  それが今回のテーマの本質なわけです。

各ソースカツ丼ムーブメントにおける特徴

各ソースカツ丼と早稲田ムーブメントとの関連性を調べるために、 それぞれのソースカツ丼の特徴を次のポイントでタイプ別に分類してみたいと思います。

・ソースで煮込むか、煮込まないか。

・キャベツを敷くか、敷かないか。

このポイントで我が国の主なソースカツ丼を分類してみると、下記のようになります。

・ソースで煮込むタイプ:会津若松煮込まないタイプ:前橋、伊那、駒ヶ根、福井

・キャベツを敷く:伊那、駒ヶ根、会津若松敷かない:前橋、福井

これらの特徴について、考えていきたいと思います。

煮込むべくして煮込んだだけ。

まず、煮込むか煮込まないかの差についてい考えます。

煮込まない場合でも、ソースはご飯の上に乗せたカツの上からかける場合と、 ソース鍋にカツをくぐらせてからご飯の上に乗せる場合とがあり、どちらの方法を採るかによって ソースの味の染みこみ方が違ってくるでしょうが、 それでもソースで煮込んだタイプと比較すれば、明らかに煮込んだタイプの方が 味が染みこみやすいということが容易に理解できます。煮込むか煮込まないかで、 ソースカツ丼のテイストそのものが変ってきてしまうと思うのです。

また、調理する立場から考えると、煮込むタイプだと、カツを作り置きしても あまり味に差が出ませんが、 煮込まないタイプはやはり作り置きは味の低下を引き起こしやすいので、 煮込まないタイプは(味にコダワれば)トンカツの作り置きができないということがわかります。

第一、煮込むという作業そのものが発生するため、 おそらく“行平鍋”のような器具も必要になってくると考えられますので、 煮込むタイプと煮込まないタイプとでは、調理の手順や厨房の作りもおのずと違ったものになるでしょう。

つまり、少し乱暴な言い方をすれば、煮込むソースカツ丼と煮込まないソースカツ丼とでは全く別の食べ物だと言えるかもしれません。

調べてみると、会津若松治法では既に大正時代には煮込みソースカツ丼を食べていたということが判りました。 もともと寒いこの地方、“煮込む”という調理方法は当然のこととして行われたのだと思いますので、 ソースカツ丼を煮込んだことで煮込みソースカツ丼が誕生したわけではなく、トンカツを食べる行為として “煮込んだカツ丼をご飯に乗せて食べる” という調理方法が生まれたのだ、と見ても良いと思われます。

ここで、煮込むのになぜソースなんだ、という質問をされる方がいるかもしれません。通常この地方で煮込むといえば、味噌か醤油でというのが相場です。 それがなぜソースなのでしょうか。しかしこれも単純な理由だと思われます。 つまり、トンカツが文明開化とともに会津若松に入ってきたときから、“トンカツにはソースをかけるもの”という文化も一緒に伝わり、 そのトンカツを煮込むんだからソースで煮込もう、としただけでしょう。

つまり会津若松地方の煮込みソースカツ丼は、ソースカツ丼からの進化ではなく、この地方の独自のトンカツの食べ方として 煮込みソースカツ丼が生まれた、とするのが適切な考え方だと思うのです。 「ソースカツ丼がどのようにして煮込みソースカツ丼に変化したんだろう?」と考えてみてもこのような回答はでてきません。 「物事は起るべくして起る」、ただそれだけのことなのです。


煮込み系ソースカツ丼は「カツ丼進化論」のミッシングリンクなのか?
〜過剰に因果関係を用いた歴史教育の問題点について〜

煮込み系ソースカツ丼について話が出てきたところで、ちょっと話題を変えて、 昨今よく耳にする「カツ丼進化論におけるミッシングリンク問題」について 話してみたいと思います。

なにかにつけ因果関係を用いて歴史を説明しようとする人たちがいます。というか、学校で習ってきた歴史はほとんどがこのタイプですが、 因果関係は歴史を動かす力のホンの一部分だということを理解しないと、 歴史の本質は理解できません。「カツ丼進化論におけるミッシングリンク問題」もまさにそんな良い例だと思います。

もう皆さんもご存知でしょうが、念のため「カツ丼進化論におけるミッシングリンク問題」を簡単に説明すると以下のようになります。

日本のカツ丼の発端はソースカツ丼だったようですが、 現在、ほとんどの地方ではカツ丼=卵とじカツ丼です。 ということは、何かのタイミングで、ソースカツ丼から卵とじカツ丼への遷移が起ったのだという考え方があります。 そう、木から下りたサルが人類の子孫アウストラロピテクスへと遷移したように。

アウストラロピテクスは非常に原始的な人類ですが、サルとはまったく異なる生きものです。 サルがどのように進化を遂げてアウストラロピテクスになったかは、因果関係をを多用する歴史学者にもまだよくわかっていないようなのですが、 サルからアウストラロピテクスへと進化する“途中の過程”というのが存在するはずだと考え、 この存在のことをミッシングリンク(失われた間隔)と言われています。仮に彼らの考えが正しいにせよ、 これは“失われている”のではなく“まだ発見されていない”だけなんだと思いますが、 どうも白人種はこのような思考回路を持っているようですねぇ。(閑話休題=それはさておき)

卵とじカツ丼と言うと、どうしても“卵”の存在に注意を払ってしまいますが、 ソースカツ丼と卵とじカツ丼との最も大きな調理方法の違いは、まさに“煮込む”ことなのです。 そこに目をつけたカツ丼進化論支持者は、ソースカツ丼が煮込み系ソースカツ丼になり、そしてそれが 現在の卵とじカツ丼になったという説を発表したのです。(これは一般に「カツ丼進化論」と呼ばれています)

これを聞いて「なるほど」と納得してはいけません。上記の理論は全くの机上の空論なのです。 歴史調査はは現地調査からはじめるものなのです。現地調査を馬鹿にしてはいけません。

カツ丼進化論が過ちなことは現地調査をすればすぐにわかることなのです。 ちょっと調べてみるだけで卵とじカツ丼の発祥の地もやはり早稲田であることがわかります。 江戸時代中期から今も続く蕎麦屋「三朝庵」が 卵とじカツ丼を出した最初のお店として伝えられています。それがいつの時代なのか残念ながらまだ調べきれていませんが、 ただし、その誕生秘話は調査済みです。 “あまったトンカツを親子丼風にして食べたら美味しかったので”というのが、卵とじカツ丼の誕生秘話なのです。

つまり、ソースカツ丼が煮込みソースカツ丼に進化して、さらに卵とじカツ丼に進化したという「カツ丼進化論」は まったくの見当違いということになるわけです。やはりここでも複雑系の思考方法が必要になってくるのです。 そうです、ソースカツ丼と卵とじカツ丼との間には直接的な(いわゆる●●だから××になったというような) 因果関係など存在しないのです。 すべてはシンクロニシティとしての事象であり、「あるべくして卵とじカツ丼は存在する。」というのが正しい解釈なのです。

キャベツ問題については独自の意見があるのです

次にキャベツについて考えて見ます。これは一見するとすごく単純なことのように思われます。

単純に考えれば、「山間部の地方ではビタミン不足になりやすいので、 特に肉類を食べる時は、いつも以上に野菜を摂らねばという強迫観念が沸くため、 長野や福島の山間部でのソースカツ丼にはキャベツが付く。」という答えが出てくると思います。 これはこれで間違ってはいないのでしょうが、ワタシには絶対にそれ以外の根本的な理由があるような気がして ならないのです。

まず、もう一度、上記の「キャベツを敷く」がどの地方に該当するのか見てください。 キャベツを敷くのは伊那、駒ヶ根、会津若松ですが、これら三地方に共通のものは山間部という以外ないでしょうか?  そうです、このサイトで以前書いた「まんじゅうの天婦羅」を読んでいただいた方ならすぐにわかると思いますが、 これらの地方は保科正之が治めていた場所なのです。

彼はもともと高遠藩(現在の長野県伊那市)を治めていたのですが、 実は三代将軍徳川家光と異母弟だったことがわかり、 会津若松二十三万石へ転封されました。 そしてこの保科正之は熱心な朱子学の徒であり、身分制度の固定化を確立し、男尊女卑を推進した人としても有名です。

ワタシの父方が会津地方出身なのですが、 会津の人々はこのようなお殿様の影響か、非常に頑固です(^^; 良いものは良い、悪いものは悪い、というのが徹底していて、 「わかっちゃいるけどやめられない♪」なんていう感性とは対極に位置しております。 江戸末期に最後の最後まで幕府側について薩長と戦った会津人の姿を見れば、このあたりのワタシの暴言も、 “イイエテミョウ”だと感じていただけると思いますが。。。。

そして会津地方の白黒キッチリ筋を通す考え方は食生活にも顕著に表われ、 白いご飯は白いままでいただく、ということにとてもこだわっているところがあるのです。 昨今巷で流行っている「卵かけご飯」などというものはワタシの父は絶対に認めません。 「あんなものはブタの食いモンだ」ぐらいにしか思っていません。 白いものは白いものとして、黒いものは黒いものとして受け入れる文化が、そんなところにまで表われている (ような気がしてならない)のです。

そういう土地柄ですから、ソースが染みこんだトンカツをそのまま白いご飯に乗せるような 料理を作るなんてことは 、理屈ではなく、生理的に許されないのだと思います。せめて間にキャベツを挟んで、直接、ソースが白いご飯を汚さないようにして食べる、 という感覚が働いたにちがいないと、ワタシは自分の父の姿を思いながら考える次第であります。 そして、会津地方の人がそうなんだから、同じお殿様が治めていた伊那地方(伊那市と駒ヶ根市とは隣り合わせです)の 人も同じ感性を持っているんじゃないだろうかと、こちらは更にコジツケっぽいですが。。。

各地のソースカツ丼と早稲田ムーブメントとの因果関係について

上の方の囲み文章で、因果関係に囚われすぎな思考方法では真実は見えない、というようなことを書きましたが、 必ずしも因果関係からの推測を否定しているわけではありません。 これはこれで重要な考察手法ではあるのです。

煮込みのところで述べましたように、ワタシは会津若松のソースカツ丼と早稲田ムーブメントとの因果関係は「低い」と見ています。 全く無いとは言いませんが、会津若松の煮込みソースカツ丼は、この地方の生活習慣が生んだ独自の(に近い)文化だと思っています。 では、前橋、伊那、駒ヶ根のソースカツ丼はどうなのでしょうか?

それぞれの発生したと思われる年代は、前橋が大正4年(「西洋亭・市」というお店が元祖で、このお店は大正4年開店と書かれていましたが、いつの時代からソースカツ丼を始めたのかは不明)、伊那が昭和21年(「ひげのとんかつ 青い塔」が元祖と 言われている)、 駒ヶ根が昭和11年(「喜楽」が元祖)とのことですが、この場合も単に古い新しいを因果関係と一緒にしてはいけません。

西洋亭・市におけるソースカツ丼の誕生秘話としては「上州人のセッカチな気性を考えソースカツ丼を創案した」ということが 前橋市が発行しているフリーペーパーに出ていました。“創案した”となっているので、これをこのまま信じれば、 早稲田ムーブメントとの因果関係は無い(少ない?)と思えられますが、“上州人のセッカチな気性を考え”というフレーズが気になりますねぇ。 もしこの地に、ソースカツ丼ができるより前に、卵とじカツ丼があったのであれば、「トンカツを煮込んで卵でとじる作業が面倒なんで、 煮込み以下を省略したソースカツ丼を創案した」ということが言えますが、果たして前橋には大正4年以前に、卵とじカツ丼が あったのでしょうか? だとすれば、これは「カツ丼進化論」とは全く逆の、卵とじカツ丼が進化してソースカツ丼になったという、 ノーベル賞もんの学説が出されると思います!

また、駒ヶ根の喜楽の店主、市瀬正一氏は最初にカフェを手がけ、カレーやカツレット、オムレツなどの洋食を作っていた研究熱心な方で、 カツレットをヒントにソースカツ丼を作ったことが 駒ヶ根ソースかつ丼会のHP に書かれておりましたので、 こちらも早稲田ムーブメントとの因果関係は低そうです。 最後に伊那市ですが、伊那市のソースカツ丼の発祥の地である 青い塔のHP には 「ヨーロッパ亭」のことが書かれているため、ヨーロッパ亭のソースカツ丼をヒントにしたのかもしれません。 これらを鑑みると

・早稲田ムーブメントとの因果関係が低い(もしくは無い) : 前橋、駒ヶ根、会津若松

・早稲田ムーブメントとの因果関係が高い : 伊那

ということになるかと思います。


学会騒然 カツ丼「逆」進化論の誕生
〜前橋市のソースカツ丼のルーツが構築した新理論とは〜

カツ丼「逆」進化論とは、カツ丼進化論のアンチテーゼとして、 我がケサランパサラン研究所で、論じられるようになった理論なのです。

我が国におけるカツ丼の発祥がソースカツ丼だったことから、 ソースカツ丼がどのように現在の卵とじカツ丼へ遷移したのかを論ずるのが通常のカツ丼進化論ですが、 カツ丼「逆」進化論とは、通常の進化の方向とは逆の、卵とじカツ丼がソースカツ丼へと「逆」進化していった 事実を解き明かそうとする理論なのです。しかし、これら二つの理論は単に「進化の方向が相反する」というだけではなく、 根幹にある思考哲学が全く異なるのです。

どういうことかと言うと、カツ丼進化論が理論先行型の学問の産物であるのに対し、 カツ丼「逆」進化論は現地調査主体の学問の産物であるということです。 これは歴史学に対する考古学の立場に似ていると思います。

ソースカツ丼を論じるときに必ず出てくる早稲田ムーブメントとの因果関係、つまり、 “ソースカツ丼の発祥は早稲田のヨーロッパ亭である”という前提のもと、 “対象となるソースカツ丼がどの経路でどの時期に、早稲田ムーブメントの影響で発生したのか” という思考方法だけではどうしても解明されないソースカツ丼があります。 というよりむしろ、全ての歴史を因果関係で説明しようとすること自体、 統計学的あるいは熱力学的にも間違っているとワタシは思うのですが。。。

前橋のソースカツ丼こそ、この今までの思考方法=早稲田ムーブメントとの因果関係でその発生を解明しようとるす思考方法では 解決できない、もっとも顕著な存在だったのです。

そして、今回の調査で、我がケサランパサラン研究所では前橋のソースカツ丼発祥の謎を解き明かす 大発見をしたのです。

我がケサランパサラン研究所の調査結果は以下の通りです。

■前橋のソースカツ丼の元祖は「西洋亭 市」である。

■「西洋亭 市」の開業は大正4年である。

■しかし、「西洋亭 市」のソースカツ丼は開業当時からあったものではない。

■「西洋亭 市」のソースカツ丼を創案したのは、現在の店主の祖母にあたる方である。

■ソースカツ丼を創案したのは戦中−戦後の時期らしい。

■当時、卵が入手しずらかったこともあり、通常の卵とじカツ丼が作れなかった。

■なんとか別の方法でカツ丼を作れないかと試行錯誤を繰り返した。

■その結果、誕生したのが現在のソースカツ丼である。

■つまり前橋のソースカツ丼は、卵とじカツ丼が更に「逆」進化したものであった!

つまり、前橋のソースカツ丼は早稲田ムーブメントとの因果関係で発生したものではなく、 その当時すでに存在していた卵とじカツ丼が一人の女性の発想のもと、更に進化を遂げた結果出来上がったものであったのです。

本日、「西洋亭 市」でソースカツ丼を食べてきたのですが、 かけられたソースは、一般的に我々が考えているウスターソースとは大きくことなり、 和風の発酵食品のような香りのある、醤油のようでもありウスターソースのようでもあり、 和と洋が実に見事なバランスで融合した、そりゃあもう、素晴らしいソースなのです。

店主の方にお話を聞くと、作りかたは門外不出であるとのことですが、ミカンの皮(それも美味しいミカンの皮でなくてはならないそうです)を 乾燥させたものや、とろろ昆布など、全部で12種類の秘伝の素材を用いて、店主自ら調理しているとか。 モノの無い時代に、創案者(現店主のお祖母さん)がそれこそ全情熱をかけて試行錯誤した結果誕生した、まさに奇跡のソースと言えるでしょう。

また、トンカツは丼に合うように、肉を叩いて円形に伸ばしたものに衣を着けて揚げています。 この辺のこだわりも創案者のアイデアだとか。 実に素晴らしい方だったに違いありません。

このように、前橋のソースカツ丼は「西洋亭 市」のオリジナルであり、 これこそカツ丼「逆」進化論の証となる料理だったのです。


そもそもソースカツ丼とは特別な調理法が生み出した料理なのか?

ソースカツ丼ビックバン説を支えている根底にある前提は「ソースカツ丼は それまでに無い料理であり、そんな誰も見たこともない料理が突然現れた。」ということです。しかし、ソースカツ丼はそもそも特別な調理法が生み出した料理だったのでしょうか?

ここで、早稲田ムーブメントの原点である高畠増太郎氏がどのようにソースカツ丼を創出したのかを思い起こしてみたいと思います。

高畠増太郎氏がソースカツ丼を作った経緯として、どのソースカツ丼学者も言っている「明治時代にドイツで料理修行をした高畠増太郎氏が、大正2年に東京の料理発表会で発表した。」について考えてみれば、そもそもソースカツ丼とは何なのか、そして、ソースカツ丼シンクロニシティ説の正当性までもが、実は簡単に見えてくるのです!

なぜ、ドイツで料理を修業した高畠増太郎氏がソースカツ丼を創出できたのでしょうか? その答えは簡単です。ドイツにはソースカツ丼をインスピレーションさせるような料理が既にあったからなのです!

高畠増太郎氏はドイツで料理を学び、そしてドイツの“ある料理”をアレンジしてソースカツ丼を作ったとすれば、他にもドイツになんらかの留学をされた方はその“ある料理”を体験するでしょうから、帰国後にその“ある料理”をアレンジした料理を作ることは当たり前のように起きるはずです。つまり、高畠増太郎氏が早稲田で作ったソースカツ丼を知らない方でも、ドイツで“ある料理”を体験して帰国した後、ソースカツ丼(もしくはそれに似た料理)を創出する可能性はとても高いと言えるでしょう!  そうです、そのような理由で我が国のソースカツ丼は、早稲田ムーブメントは因果関係を持たずに、各地で独立に発生したのです。

では、ソースカツ丼の基となった、ドイツで有名な“ある料理”とはいったいなんだったのでしょうか? それは料理を勉強したことのある方なら誰でもご存知の「シュニッツェル風カツレツ」なのです。これはパン粉を衣として揚げたカツレツに、フォンドブォーとバターで作ったソースをかけて食べる料理で、ドイツでは一般的な料理です。つまりドイツに料理修行をした日本の方なら、ソースカツ丼(シュニッツェル風カツレツ風なものをご飯にのせた料理)を考え付く可能性がとても高いと予想されるわけです。

複数のソースカツ丼ビックバンがシンクロニティな関係で起きていた!

ここまでの説明で下記のことがお解かりになったと思います。

■日本のソースカツ丼はドイツの「シュニッツェル風カツレツ」を和風にアレンジしたものである。

■それを“時代的に最も早く創出”したのは高畠増太郎氏であろう。

■高畠氏のソースカツ丼を基に出店したソースカツ丼屋も確かにある。

■しかし、高畠氏のソースカツ丼とは独立に誕生したソースカツ丼も多数ある。

■ドイツ料理を勉強した料理人が独自にソースカツ丼を創出した場合もあるであろう。

■前橋の西洋亭 市のように、全く独自にソースカツ丼を創出した場合もある。

■つまり、ソースカツ丼の誕生には様々なパターンがあるのだ!

どうでしょう、これが我がケサランパサラン研究所の調査結果です。

歴史はもちろん因果関係で動くこともあるでしょうが、必ずしもそうだと決まったわけではないのです。人がいれば、人の数だけ思考は起り、そして思考の数だけ創作は生まれるのです。

歴史は一人一人の人間が、そう貴方も含め、一人一人の人間が造りだしていくのです。