|
|  |

2005年11月7日 月齢5.4 立冬

ワタシは馴染みの店のカウンターに座っていた。カラオケも無く、
コンパニオンもいない、ただ、美味い酒があるだけの店。。。。
Bar現実逃避、それがこの店の名前だ。

元気がないね。この店のマスターで、
最高の腕を持つバーテンダーである
もぐちゃんがワタシに声をかけた。
なに、いつものアレだよ。定期的にやってるく慢性のうつ病だ。極めて冷静を
装いながら、ワタシはそう答えた。

そう、特別なことじゃない。30を過ぎた頃から、少しずつワタシの魂の中に
黒いドロドロとしたものが溜まるようになってきたんだ。
普段は気がつかないのだが、ふと、自分の魂がまるでコールタールで
満たされていくかのごとく、身動きが取れなくなってしまう感じに
襲われるときがある。
いや、この“感じは”常にあるのかもしれない。
ただ、その恐怖を、馬鹿騒ぎをしてはしゃいだり、
美味しいものを喰ったりしながら、なんとか誤魔化して生きている、というのが
最近のワタシの人生なんだ。

人間の社会も大変なんだね。ボクは縫ぐるみだから良くわからないけどさ。と、
もぐちゃんは言った。彼は モノリスの力で 話したり動いたりできるようになった
テディーベアなんだ。

これはボクのおごりだよ。そう言うと、もぐちゃんは琥珀色の液体が入った
ショットグラスと氷水の入った大き目のグラスをワタシの前に置いた。
サンキュー。で、これはなんていう酒なんだい。と、ワタシは言った。
マッカランの25年 だよ。と、もぐちゃんは言った。
ほー。ワタシは目を見開き、そう言うと、
ショットグラスに入った液体を一口なめ、口の中に広がる方向名香りを楽しんだ。
こりゃ、たいそうなものをいただいちまったなぁ。
どういたしまして。ところで、このお酒が樽に詰められた25年前には、にへどんは何をしていたの? と、もぐちゃんは言った。
25年前かぁ、う〜ん、まだ高校生だった頃だよ。と、ワタシはそう言って、琥珀色の液体をまた一口なめた。
なんだか高校時代の甘酸っぱい記憶が蘇り、自分の顔の筋肉がくすぐったく
なるのを感じた。
今、飲んでいるのは25年前に造られた酒なんだなぁ。ワタシはなんだか感心したような気分でそう言った。

そういえば、星の光も同じだ よね。今、見える星の光は何年も前にその星から
発せられた光なんだよね。と、もぐちゃんは言った。
さすが、もぐちゃん。面白いことを言うなぁ。ワタシは言った。

グラスから立ち上る芳香がワタシの魂を宇宙空間へ導いてくれるような感じがした。
そのとき、ワタシの中の好奇心が火花のように輝いた。ワタシは言った。
もぐちゃん、この酒と同じ、
つまり25年前に発せられた光が、ようやく今見えている星ってどんな星だろう。
もぐちゃんは真ん丸の瞳をさらに真ん丸にして、キョキョキョと笑うと、ちょっと待って、今、調べるから。と、言って、カウンターの
後ろにある酒ビンが並ぶ棚の中から、一冊の小さな本を取り出した。
おいおい、この店にはそんなもんまであるのかい。と、
「天文年鑑」 をパラパラと
めくっている もぐちゃんを覗き込みながら、ワタシは言った。
美味しいお酒と宇宙の神秘はとても相性が良いんだよ。「天文年鑑」に
目を通しながら、もぐちゃんは言った。そして嬉しそうな声を出した。
あ、あったよ。
今、見える星の中では、みなみのうお座の一等星、フォーマルハウト が
地球から25光年離れた場所にあるよ。つまり、今見えるフォーマルハウトの光は
そのお酒が造られたのと同じ25年前に星から発せられた光なんだ。と、もぐちゃんは言った。
へー。と、ワタシは感心してそう言った。そしてグラスを持って静かに席を立ち、
フォーマルハウトを見るために外へ出た。ほろ酔いの身体に夜の冷たい空気が心地良かった。

Bar現実逃避は小高い丘の上にあり、南の空の低い位置に輝くフォーマルハウトを
運良く見つけることができた。

今日は星が綺麗だね。と、ワタシの後ろで、もぐちゃんが言った。
あの星の光も、今飲んでいるこの酒も、同じ時期に作られたものなんだなぁ。
そしてワタシはその時、まだ紅顔のガキんちょだったわけだ。と、ワタシは言った。
夢と希望にあふれた高校生だったわけだね。と、もぐちゃんは言った。
そうさ、そして今だって、まだまだそんなに萎えちゃったわけじゃないよ。と、
25年前に発せられた光 に25年物の酒をかざしながら、ワタシは言った。

Bar現実逃避、ただ美味い酒があるだけの店。でも、それだけじゃないんだ。。。

第ニ話おわり



|