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研究ノート
ソースカツ丼のルーツを考える
ソースカツ丼誕生に関する定説今回のテーマの本質について 最初の早稲田と最後の福井は実は同じものを指す。 ソースカツ丼 福井発祥説は「ソースカツ丼ビックバンin早稲田説」で出てきた高畠増太郎氏が早稲田に開いたヨーロッパ亭が関東大震災で被災した後、 地元福井に帰り、そこで再びヨーロッパ亭を開いたことを指しているのだ。 このように高畠氏のヨーロッパ亭がきっかけとなったソースカツ丼ムーブメントを 早稲田ムーブメント と呼ぶ。 上記の早稲田・福井以外のソースカツ丼は早稲田ムーブメントと因果関係を持っているのだろうか? それとも早稲田ムーブメントとは因果関係がなく独自に発生したものなのだろうか? これが今回のテーマの本質だ。 各ソースカツ丼の特徴 このポイントで我が国の主なソースカツ丼を分類してみると、下記のようになる。 これらの特徴について、考えていきたいと思う。 煮込むべくして煮込んだだけ。 もともと寒いこの地方、“煮込む”という調理方法は当然のこととして行われたのだろうから、「ソースカツ丼のカツの味付けをするのに、“煮込む”という方法を採用した。」、というのではなく、「トンカツの食べ方として “煮込んだトンカツをご飯に乗せて食べる” という調理方法が生まれた。」と考えられる。 ここで、煮込むのになぜソースなんだ、という質問をされる方がいるかもしれない。 通常この地方で煮込むといえば、味噌か醤油でというのが相場だ。 それがなぜソースなのか。 しかしこれも単純な理由だと思われる。 つまり、トンカツが文明開化とともに会津若松に入ってきたときから、“トンカツにはソースをかけるもの”という文化も一緒に伝わり、そのトンカツを煮込むんだからソースで煮込もう、としただけだろう。 つまり会津若松地方の煮込みソースカツ丼は、ソースカツ丼からの進化ではなく、この地方の独自のトンカツの食べ方として煮込みソースカツ丼が生まれた、とするのが適切な考え方だ。 「ソースカツ丼がどのようにして煮込みソースカツ丼に変化したんだろう?」 と考えてみてもこのような回答はでてこない。 「物事は起るべくして起る」ただそれだけのことなのだ。
キャベツ問題については独自の意見がある。 これは一見するとすごく単純なことのように思われる。 「山間部の地方ではビタミン不足になりやすいので、特に肉類を食べる時は、いつも以上に野菜を摂らねばという強迫観念が働くため、 長野や福島の山間部でのソースカツ丼にはキャベツが付く。」 という答えだ。 これはこれで間違ってはいないのだろうが、 ワタシにはそれとは別の根本的な理由があるような気がしてならない。 まず、もう一度、上記の「キャベツを敷く」がどの地方に該当するのか見て欲しい。 キャベツを敷くのは伊那、駒ヶ根、会津若松だが、これら三地方に共通のものは山間部という以外ないだろうか? そうなのだ、このサイトで以前書いた「まんじゅうの天婦羅」を読んでいただいた方ならすぐにわかると思うが、これらの地方は保科正之が治めていた場所なのだ。 彼はもともと高遠藩(現在の長野県伊那市)を治めていたのだが、実は三代将軍徳川家光と異母弟だったことがわかり、会津若松二十三万石へ転封されることになった。 そして彼は熱心な朱子学の徒であり、身分制度の固定化を確立し、男尊女卑を推進した人としても有名だ。 ワタシの父方が会津地方出身なのでわかるのだが、 会津の人々はこのようなお殿様の影響か、非常に頑固なのだ。 良いものは良い、悪いものは悪い、というのが徹底していて、 「わかっちゃいるけどやめられない♪」 なんていう感性とは対極に位置している。 そして会津地方の白黒キッチリ筋を通す考え方は食生活にも顕著に表われ、 白いご飯は白いままでいただく、ということにとてもこだわっているところがある。 昨今巷で流行っている 「卵かけご飯」 などというものはワタシの父に言わせれば 「あんなものはブタの食いモンだ」 ぐらいにしか思っていないのだから。 そういう土地柄だから、ソースが染みこんだトンカツをそのまま白いご飯に乗せるような料理は、理屈ではなく、生理的に許されないのだと思う。 せめて間にキャベツを挟んで、直接、ソースが白いご飯を汚さないようにして食べる、 という感覚が働いたにちがいないと、ワタシは自分の父の姿を思いながら考える次第だ。 そして、そういう文化は 保科正之が朱子学とともに持ち込んだもので、 彼がかつて治めていた伊那や隣の駒ヶ根にも同じような文化が残っているのだと思うが、いかがだろう。 各地のソースカツ丼と早稲田ムーブメントとの因果関係について 煮込みのところで述べたように、 ワタシは会津若松のソースカツ丼と早稲田ムーブメントとの因果関係は「低い」と見ている。 全く無いとは言えないが、 会津若松の煮込みソースカツ丼は、この地方の生活習慣が生んだ独自の文化だと思っている。 では、前橋、伊那、駒ヶ根のソースカツ丼はどうなのだろうか? それぞれの発生したと思われる年代は以下の通りだ。 西洋亭・市におけるソースカツ丼の誕生秘話としては「上州人のセッカチな気性を考えソースカツ丼を創案した」ということが前橋市が発行しているフリーペーパーに出ていた。 “創案した”となっているので、これをこのまま信じれば、早稲田ムーブメントとの因果関係は無い(少ない?)と考えられるが、“上州人のセッカチな気性を考え”というフレーズが気になるところだ。 もしこの地に、ソースカツ丼ができるより前に、卵とじカツ丼があったのであれば、 「トンカツを煮込んで卵でとじる作業が面倒なんで、煮込み以下を省略したソースカツ丼を創案した」 となるわけだが、 果たして前橋には大正4年以前に、卵とじカツ丼があったのだろうか? だとすれば、これは「カツ丼進化論」とは全く逆の、卵とじカツ丼が進化してソースカツ丼になったという、ノーベル賞もんの学説が出されるはずだ! また、駒ヶ根の喜楽の店主、市瀬正一氏は最初にカフェを手がけ、 カレーやカツレット、オムレツなどの洋食を作っていた研究熱心な方で、 カツレットをヒントにソースカツ丼を作ったことが 駒ヶ根ソースかつ丼会のHP に書かれていたので、 こちらも早稲田ムーブメントとの因果関係は低そうだ。 最後に伊那市だが、伊那市のソースカツ丼の発祥の地である 青い塔のHP には「ヨーロッパ亭」のことが書かれているため、ヨーロッパ亭のソースカツ丼をヒントにしたのかもしれない。 これらを鑑みると 各ソースカツ丼と 早稲田ムーブメント との関係は以下のようになる。
そもそもソースカツ丼とは特別な調理法が生み出した料理なのか? ここで、早稲田ムーブメントの原点である高畠増太郎氏がどのようにソースカツ丼を創出したのかを思い起こしてみたいと思う。 高畠増太郎氏がソースカツ丼を作った経緯として一般的なのは 「明治時代にドイツで料理修行をした高畠増太郎氏が、大正2年に東京の料理発表会で発表した。」 である。 ではなぜ、ドイツで料理を修業した高畠増太郎氏がソースカツ丼を創出できたのだろうか? その答えは簡単だ。 ドイツにはソースカツ丼をインスピレーションさせるような料理が既にあったからだ。 高畠氏は ドイツで学んだ“ある料理” をアレンジしてソースカツ丼を作ったのだ。 では、ソースカツ丼の基となった、ドイツで有名な “ある料理” とはいったいなんだったのか。 それは 「シュニッツェル風カツレツ」 という料理で、パン粉を衣として揚げたカツレツに、フォンドブォーとバターで作ったソースをかけて食べる料理で、ドイツでは一般的な料理なんだとか。 つまりドイツに料理修行をした日本の方なら、ソースカツ丼(シュニッツェル風カツレツ風なものをご飯にのせた料理)を考え付く可能性がとても高いと予想されるのだ。 ここまでの説明で解ったことをまとめる。 ■それを“時代的に最も早く創出”したのは高畠増太郎氏であろう。 ■第三者が高畠氏のソースカツ丼をからヒントを得てつくったソースカツ丼も確かにある。 ■しかし、高畠氏のソースカツ丼とは独立に誕生したソースカツ丼も多数ある。 ■例えば、ドイツ料理を勉強した料理人が独自にソースカツ丼を創出した場合もあるであろう。 ■また、前橋の西洋亭 市のように、全く独自にソースカツ丼を創出した場合もある。 ■つまり、ソースカツ丼の誕生には様々なパターンがあるのだ! どうだろう、これが我が『けさらんぱさらん』の調査結果だ。 歴史はもちろん因果関係で動くこともあるだろう、 必ずしもそうだと決まったわけではないのだ。 人がいれば、人の数だけ思考は起り、そして思考の数だけ創作は生まれる。 歴史は一人一人の人間が、そう貴方も含め、一人一人の人間が造りだしていくものなのだ。 | |||||||
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