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謎★伝説探査

東京は一つじゃない

家康が江戸に幕府を構える(1603年)、約150年前の1457年に、大田道灌によって江戸城(の基盤)は建てれていた。

もちろんそれ以前にも歴史はあったわけで、秩父江戸氏の一族(河越氏、畠山氏、豊島氏、江戸氏、葛西氏、稲毛氏など)が勢力を振るっていたが、内紛があったり、 さらに北条氏、上杉氏、古河公方(こがくぼう;関東足利氏)などの勢力との確執があったりと、 決して単純な勢力構造ではなかった。 そしてそのときの爪あとは今でも垣間見ることができるのだ。

今回は室町時代の中頃、東京を二分した豊島一族と太田道灌との戦争の爪あとを訊ねてみた。

室町時代の中頃におきた 「長尾景春の乱」 により、景春に同心した豊島泰経と、上杉家の家宰 太田道灌との間で、現在の東京は真っ二つに分かれていた。

歴史的にみれば “東京の二分化” は 「江古田・沼袋原の戦い(1477年)」 で豊島側が敗退したことで終結し、東京は一つになったのだが、500年以上経った今でも、その爪あとはシッカリと残されているのである。

写真は東京 中野区にある 「江古田原沼袋古戦場碑」。 昭和31年に東京都が 「太田道灌 江戸築城500年記念」 なるイベントを行った際に、その一環として中野区が建てた碑である、

ワタシはこの碑が “この地に残る、反・太田道灌気質の表れ” であり、皆が太田道灌の江戸築城を称えてハシャいでいる姿に対抗して建てられたのだ、と思えてならない。

それに、泰経は黄金の鞍を付けた馬に跨り三宝寺池に入水したとういう伝説 も、“泰経はその後 転々と川崎方面に逃げ続け、最後は行方不明。” という、道灌が書き残した “惨めな後日談” を否定したいと思う、この地に住む人々の気概から生まれたのではないだろうか。

その土地の文化は歴史が育んできたものであり、都市開発が行われても、その指紋はいまだに残っている。  東京はいまだに一つじゃないのだ、と思うと、それはそれで楽しくなる。



このあたりにはかって、当時の戦死者を葬った「豊島塚」と呼ばれた塚が点在しており、特に沼袋の「金塚」からは昭和の区画整理の際にはなんとリアカー3台分もの人骨が出てきたというのだから、当時の戦いがいかにすさまじかったかわかる。

それだけすさまじい戦いであったということは、その戦いに敗れた豊島一族の怨念もまた、そりゃあすさまじいに決まっている。 そんなわけでこのあたりは昔から、結構 “でる” らしい。

江戸時代には、この近辺のある橋が豊島一族家臣の渡辺氏の呪いで、渡った者は死んでしまう、というかなり直接的な怨念の表現方法をとった言い伝えがあったり、 昭和になってからも区画整理等で住宅地化された古戦場跡地に住んだ人々が悪夢にうなされたりと、かなりインパクトの強い土地だったようだ。

そして、そのような戦死者の怨念を静める目的で建てられたのが、「江古田原沼袋古戦場碑」から新青梅街道を西に10分ばかし行った角を左にちょこっと曲がったところにあるマンションと商業ビルとの間に挟まれた一角にポツンとある「延命地蔵」やその対面にある公園の中にある「豊島二百柱社」なのだ。

にぎやかな商店街近くにあるにもかかわらず、なにやら背筋が寒くなるようなマイナスのオーラを醸し出しているような気がしてならなかったのだ、これは単なる気のせいだろうか。




【石神井公園・三宝寺池】 豊島泰経が入水自殺したといわれる池。
黄金の鞍を付けた馬ごと沈み、その鞍は今も池の底に残っているという。

【豊島家の墓がある道場寺】 


【姫塚】 豊島泰経の娘 照姫を祀る塚。
照姫は豊島泰経を追って自害した。

【殿塚】 豊島泰経の塚。
隣にある姫塚と比較すると地味な感じだ。

【江古田原沼袋古戦場跡】 江古田豊島泰経と太田道灌との間で行われた東京地方を二つに分けた戦の記念碑がある。

【豊島二百柱社】 江古田・沼袋の戦いの犠牲者を祀る


【延命地蔵】 江古田・沼袋の戦いの犠牲者を祀る


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延命神社
豊島二百柱社三宝寺池姫塚