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◆そもそもケサランパサランって何んだ?
謎★伝説探査
スポンサーを連れてきた右手の招き猫
“招き猫の発祥の地”というのは結構いろんな場所にあるが、東京の“招き猫発祥の地”として最も有名なのは豪徳寺だろう。
現在は世田谷の地にドカーンと居を構える豪徳寺だが、かつては寂れた寺だった時期もあり、それを今のようにゴージャスにしてくれたスポンサーを導いたのはなんとネコだったと言うのだ。
豪徳寺
東京都 世田谷区 豪徳寺 2-24-7
豪徳寺はもともとは世田谷城(※1)の5代目城主、吉良政忠が伯母にあたる弘徳院 (4代目城主、頼高の娘)のために、文明12年(1480年)に城内に創建された小庵だったが、 小田原の役での世田谷城開場とともに荒れ果てさびれてしまっていた。
そしてそのさびれはてた弘徳庵の住職は、飼っていた愛猫タマに向かって、 こんなにかわいがってやっているんだから何か恩返しでもしてくれよ、と、 およそ聖職者とは思えない愚痴を繰り返してつぶやいていたらしい。
そんなある夏、近江彦根城主、井伊直孝(※2)が鷹狩で近くを通りがかったのだが、 この猫のタマちゃんが井伊直孝ご一行の前に立ちはだかり、 “おいでおいで”の招き猫ポーズで弘徳庵の方に導いたというのだ。
最初は気味悪がった井伊直孝も、何を思ったのかネコに導かれるままに弘徳庵にやってきたとたん、あたりはものすごい雷雨にみまわれるではないか!
井伊直孝は雷雨から逃れられた嬉しさと、その雨宿りの最中に住職から聞いた法話に感動したことがきっかけで、その後、その庵を豪徳寺と名前を改め、井伊家の菩提寺としたのだそうだ。
それ以来、豪徳寺は栄えて、いまでも世田谷の住宅街にどかーんと敷地を構えているというわけだ。 当然、今も境内には猫観音を祀る招猫殿が建っている。 まさに福を招いた猫(※3)ということになる。 猫を飼っている方はものは試しに頼みごとをしてみてはいかがかな♪
訳注
※1 世田谷城
現在の豪徳寺近辺にあった世田谷城は、南北朝期の中盤、貞治5年(1366年)に吉良治家が鎌倉公方・足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領してこの地に居住するようになり建てた城だ。
吉良氏とは足利氏と同祖であり、かなりの血筋の良い家柄だったようだ。 なにしろ本家の三河吉良氏(あの「赤穂浪士」で討たれた吉良上野介の先祖)は「足利幕府に世継ぎなくば吉良氏より」と言われるほどの名門で、世田谷城主となった武蔵吉良氏も、関東では、関東足利家、関東上杉家に次ぐ第三の名門でだったとか。
吉良成高(治家を初代世田谷吉良氏とすると6代目)は、あの太田道灌(上杉家家宰)からも「吉良殿様」とよばれていた。(成高は太田道灌とともに、長尾景春の乱に呼応した豊嶋氏を退けている。 豊嶋氏と太田道灌との戦いに関連する話しは
コチラ
)。)
その後、世田谷吉良氏7代目頼康は後北条氏と結んだが、後北条氏と豊臣秀吉との戦い(小田原の役)の際に、世田谷吉良氏8代目氏朝(頼康の養子=後北条家の血筋)は世田谷城を明け渡し、世田谷吉良氏は滅ぶことになる。
そしてあとに残された世田谷城は、城の木材、石材をその後の江戸城の改修に使われたとか。 環境に優しい 循環型の社会システムとも言えるが、城を守るために命を投げ出した兵士たちを想うと、そういうリサイクルは切ないきもする。
※2 井伊直孝
とてもおっかない人だったようだ。 なんといっても「夜叉掃部」とか「彦根の赤牛」とかいった呼び名がついてたらしいし、直孝の父親の直政も「井伊の赤鬼」と呼ばれていたということなので、そのおっかなさぶりも筋金入りということだろう。
幕末の井伊直弼も彼の子孫で、彼のあだ名が「赤鬼」だったとか。一体どういう家系なんだ。
※3 福を招いた猫
「福を招いた」豪徳寺の招き猫は右手を上げているが、実は左手を上げている招き猫もいるのだ。
都内では豊島区西巣鴨の西方寺の招き猫が「左手招き猫」で、こちらは「災難から主人を救った猫」なんだとか。
右手か左手かは招き猫ファンにとってはかなりコダワルところなのだが、 豪徳寺近辺の商店街で見つけた看板(右の写真)ではなんと左手を上げている!
これは単なる無頓着からきた間違いか? それとも何か意味があるのか? う〜む。
アクセス
小田急小田原線 豪徳寺駅から徒歩10分。
東急世田谷線 宮の坂駅から徒歩3分。
車で行く場合はこのあたりは道が狭く一方通行も多く、さらに駐車場も少ないので、 よく調べてから行くべし。
実はこの辺りには野生の狸が住んでいる。
八王子方面から月日をかけてこちらに住み移って来たらしいのだが、 そんな狸が住みつけるような場所がこの近辺には結構残っているのだ。
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豪徳寺
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