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◆そもそもケサランパサランって何んだ?
謎★伝説探査
黄金の鞍が眠る池
当時の人々の思想の源流であった陰陽五行説においては “水と金とは「相性」の関係” であり、それが理由からか、 池や川の水の中には金属製品が沈んでいるという伝説は結構残されている。
そして、東京の憩いの場である石神井公園にある大きな池にも、黄金の鞍が眠っているとの 伝説があるのだ。
石神井公園 三宝寺池
東京都 練馬区 石神井台 一丁目・二丁目、石神井町五丁目
写真の石神井公園の三宝寺池には黄金の鞍が沈んでいるという伝説と、それに伴う幼い姫の悲しい話が残されている。
時は室町時代の中盤、既に足利将軍の権力は衰え、豪族たちの領地争いに対する抑えが効かなくなってきた ころの話だ。
その頃、多摩地域から埼玉南部、練馬区、北区、足立区一帯は、 本拠地の石神井城を現在の石神井公園の南の高台に築き、練馬や平塚(現在の北区西ヶ原)にも城を構える、平安時代末期から続く平家の名族、豊島泰経により治められていた。
そこへ、扇谷上杉氏の家宰で河越(今の川越)・岩槻を治めていた太田道灌が進出し、江戸城を構築したのが1457年。 泰経にとっては面白くなかっただろう。
そんな時代背景のなか、武蔵守護(南関東一帯の統治者)上杉顕定の家臣 長尾家内で、 家督を継いだ忠景に家督争いで敗れた甥の景春が謀反を起こした。 これに豊島泰経も同調し、上杉家-太田道灌ラインに戦いを挑んだのだ。(長尾景春の乱)
そしてついに文明九年(1477年)、太田道灌と豊島泰経の両者は現在の西武新宿線の沼袋近辺で 「江子田・沼袋の戦い」と呼ばれる激しい戦いを引き起こすことになったのだ。
ところが、豊島一族は名門の豪族だったが、その兵は農閑期の農民であり、 対して、太田道灌の兵は戦を専門とする武士団であった。 そのため戦力の差は歴然。 泰経の軍は次々と打ち負かされ、 石神井城まで追い詰められてしまった。
その後、太田道灌の書では、泰経は平塚の城(北区西ヶ原)に逃げ、 更には横浜方面に逃亡したとされているが、地元の伝説ではチト違う。
覚悟を決めた泰経は、キラビヤカな鎧兜をまとい家宝の黄金の鞍を付けた白馬に跨り、 馬上で大見得を切ったあと、そのまま白馬ごと三宝寺池に飛び込み自らの命を絶ったのだという。 そして最初に書いた照姫(泰経の娘)も、父を追って同じく三宝寺池に身を投げたのだとか。
今も、この池には豊島泰経の金の鞍が沈んでいるのであろうか。
この伝説にはオマケがあって、明治時代には三宝寺池に沈んであろう 黄金の鞍を引き上げようとした輩がいたらしい。 こういった御仁の存在はワタシに勇気を与えてくれるなぁ。 名前はなんていうのだろうか。 ご存知の方は是非教えていただきたい。
【石神井公園・三宝寺池】
豊島泰経が入水自殺したといわれる池。
黄金の鞍を付けた馬ごと沈み、その鞍は今も池の底に残っているという。
【豊島家の墓がある道場寺】
【姫塚】
豊島泰経の娘 照姫を祀る塚。
照姫は豊島泰経を追って自害した。
【殿塚】
豊島泰経の塚。
隣にある姫塚と比較すると地味な感じだ。
【江古田原沼袋古戦場跡】
江古田豊島泰経と太田道灌との間で行われた東京地方を二つに分けた戦の記念碑がある。
【豊島二百柱社】
江古田・沼袋の戦いの犠牲者を祀る
【延命地蔵】k
江古田・沼袋の戦いの犠牲者を祀る
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